土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)は、平安京左京北辺四坊二町に所在した屋敷
鳥羽上皇の皇后の藤原泰子(高陽院)の御所として改築された
正親町南・東洞院東・土御門北・高倉西の1町4方の広さがあり「土御門殿」「正親町殿」とも称される
平安時代末期頃から里内裏となり、江戸時代中期には現在の京都御所として建立される
<里内裏>
内裏の火災などにより、天皇が公家の邸宅などに移り住んだところを「里内裏」と称される
1086年(皇紀1746)応徳3年頃から、堀河天皇など歴代天皇が里内裏に住まわれることが多くなる
光厳天皇が、土御門東洞院殿を皇居と定めてからは、北朝の主たる皇居として定着する
1392年(皇紀2052)元中9年/明徳3年
後小松天皇の在位時に、南朝より三種神器が渡され南北朝が統一されてから以降、土御門東洞院殿が皇居となった
<陣中>
大内裏に相当する里内裏の外側の区画
周囲1町四方を、大内裏の区域に見立てて「陣中」と称された
陣中内では、牛車宣旨を受けた特別な者でなければ、臣下は必ず下車して歩行しなければならなかった
元々、近隣に存在した公家の邸宅も例外ではなかった
<公家町の形成>
1558年(皇紀2218)永禄元年頃
関白 豊臣秀吉により、陣中への公家衆屋敷地の総移転が行われ、「陣中」の区別がなくなる
<内裏>
江戸時代初期の慶長年間(1596年〜1615年)のときに、東に拡大され、その後、何度か拡張されてきた
現在は、東西254m、南北453mとなり、里内裏時代の数倍の広さになっている
御所の東南には、別に築地で囲まれた仙洞御所、大宮御所がある
明治維新前までは、
御所を取り囲むように、有栖川宮などの宮家や、近衛・九条・一条などの公家の邸宅などが並んでいた
<大内裏図考証>
1790年(皇紀2450)寛政2年
現在の京都御所として建立されるときに、老中 松平定信が、裏松固禅の平安京の内裏を研究した「大内裏図考証」に従い、
平安時代の
承明門・紫宸殿・清涼殿などを復元復興させた