本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、明智光秀が、本能寺に滞在していた主君 織田信長に討ち入りをした事件
朝敵・仏敵にもなっていた信長の恐政を絶ち、秀吉・徳川家康に安定的な世の平定を託したといわれる
信長は、光秀の討ち入りと聞いて一瞬で諦め、火を放ち自害する
嫡男 織田信忠も、宿泊していた妙覚寺から二条新御所に移って戦ったが、火を放って自害した
本能寺の変の後、光秀は、奈良 興福寺や、朝廷 誠仁親王らから祝儀を受ける
肥後細川家に伝わる「明智光秀公家譜覚書」によると
光秀は本能寺の変の後、朝廷に参内して、従三位・中将に叙任された上で、征夷大将軍の宣下を受けたと記されている
本能寺の変の謎は多く、様々な説の伝承があり、その後の山崎の戦いでの敗因も様々な要因がいわれるが、
本能寺の変で、信長が光秀の討ち入りと聞いて一瞬で諦めたほどの戦略家・知将であった光秀は、
全てを想定した上で、朝敵・仏敵となっていた信長の恐政を絶ち、秀吉・家康に安定的な世の平定を託したといわれる
安土桃山時代
1582年(皇紀2242)天正10年3月11日
織田信長は、甲斐国の武田勝頼・信勝親子を天目山に追い詰めて自害させる
織田軍の羽柴秀吉は中国地方で毛利家と、柴田勝家は北陸地方で上杉家と戦闘をしていた
3月27日
信長は、軍勢を現地解散し、甲府より返礼に来た息子 織田信忠を諏訪に残して
甲斐から東海道に至る道を富士山麓を眺めながら帰国の途につく
武田攻めに参戦した滝川一益は、そのまま信濃に駐留して、関東地方の北条家と対峙する
徳川家康は、武田攻めの長年の功績として武田家の領地であった駿河の国が与えられ、安土城に招待される
4月3日、信長は、新府城の焼け跡を見物し、かつての敵 武田信玄の仮御殿にしばらく滞在
4月10日、信長が、甲府を出発する
4月21日、信長が、安土に凱旋して到着する
4月23日
正親町天皇は誠仁親王への譲位を迫られ信長と争っており、信長は無官・無位のままであったが、
勧修寺晴豊(誠仁親王の義兄)が、甲州征伐の祝賀の勅使として安土に到着する
勧修寺晴豊は、信長を太政大臣か関白か征夷大将軍かに推挙するという「三職推任」を打診する
5月4日
誠仁親王の親書を添えた勅使が再び訪問し、信長の接待を受けるが、将軍任官の話はなかったといわれる
5月7日
信長は、光秀を介して織田家に貢物を贈っていた土佐(現在の高知県)の長宗我部元親との約束を反故にし、
信長の三男 織田信孝を総大将にして、重臣の丹羽長秀なども加えた主力部隊で四国討伐することを決める
光秀は、長宗我部元親との取次役を担っており、光秀の重臣 斎藤利三は妹を長宗我部元親に嫁がせていた
信長は、光秀に、戦いには出ずに安土を訪れる家康の接待役を務めるように命じる
5月15日より3日間
家康が安土城に到着し、接待役の光秀は、京都や堺から珍物を多くさん取り揃えて家康をもてなす
5月17日
備中高松城を攻囲中の秀吉から、毛利輝元・小早川隆景・吉川元春の援軍が現れたため応援を要請する旨の手紙が届く
信長は、自ら出陣して、中国から九州まで一気に平定してしまおうとし、堀秀政を使者として備中に派遣して伝え、
光秀と、その与力衆(長岡藤孝・池田恒興・高山右近・中川清秀・塩川長満)に援軍の先陣を務めるように命じた
同日中に
光秀は、坂本城に向かい、出陣の準備を始める
5月21日
信長の嫡男 織田信忠が上洛して、一門衆、母衣衆などを引き連れて妙覚寺に入る
5月26日
光秀は、居城である亀山城に戻る
17日から、この日まで光秀がどこで何をしていたかは不明になっている
5月27日
光秀は、亀岡の北に位置する愛宕山に登って愛宕神社の愛宕権現に参拝し、宿泊する
愛宕山の月輪寺で、おみくじを数度引いて神意を読んだといわれる
5月28日
光秀は、愛宕山の愛宕五坊の一つ威徳院西坊で連歌会(愛宕百韻)を催す
28日中に亀山城に帰城する
5月29日
信長は安土城を留守居衆と御番衆に託して「戦陣の用意をして待機、命令あり次第出陣せよ」と命じて、
供廻りを連れずに、約150騎と小姓衆が30人の約180人ほどで上洛し、同日、京での定宿であった本能寺に入った
6月1日
信長は、前久、晴豊、甘露寺経元などの公卿・僧侶ら40名を招き、本能寺で、名物茶器のコレクションの品評会や茶会を開く
夜は、酒宴となり、妙覚寺より織田信忠が来訪して、信長・織田信忠親子は久しぶりに酒を飲み交わしたといわれる
深夜、織田信忠が帰った後も、信長は、囲碁の名人 本因坊算砂と鹿塩利賢の囲碁の対局を見て楽しんだといわれる
本能寺には、小姓、護衛の一部の約100人ほどが宿泊した
同日
光秀は、1万3,000人を率いて亀山城を出陣する
光秀は「上様より飛脚があって、中国出陣の準備ができたか陣容などを検分したいとのお達しだ」と説明したといわれる
同日午後6時頃(酉の刻)
光秀は、篠村八幡宮で軍議を開き、明智秀満(弥平次)・明智光忠(次右衛門)・斎藤利三・藤田行政(伝五)・溝尾茂朝らに
信長が他将と合流する前に信長を討伐することを告げ、作戦を練ったといわれる
亀岡から西国への道は、当時は、南の三草山を越えるのが普通であったが、
光秀は「老ノ坂を上り山崎を廻って摂津の地を進軍する」と兵に告げて軍を東に向かわせ、
老ノ坂峠を越えて、沓掛で休憩をする
6月2日未明
桂川に到達すると、光秀は、馬の沓を切り捨てさせ、足軽には新しく足半の草鞋に替えるように命じ、
火縄を一尺五寸に切って火をつけ、五本づつ火先を下にして持つよう指示し、戦闘準備を行い、
東に向きを変え、二手に分かれて信長が宿泊していた本能寺に向かう
同日曙(午前4時頃)
明智勢は、全周を水堀で囲まれていた本能寺を完全に包囲する
前列には鉄砲隊が並び、四方から一斉射撃が行われ、四方より攻め込み戦闘となる
信長は、明智の軍勢と聞いて一言「是非に及ばず(やむおえぬ)」と言ったといわれ、
光秀の戦略性やその能力から、脱出は不可能であろうと悟ったものといわれる
信長は、御殿の奥深くに籠り、内側から納戸を締めて切腹し、森蘭丸に遺骸の上に畳を覆いかぶさせたといわれる
同日午前8時前(辰の刻)
本能寺での戦闘は終わったとされる
光秀は、信長の遺骸を探し回ったが見つからず、二条新御所の攻撃に向う
信長の長男 織田信忠は、本能寺より、北北東に1.2km離れた妙覚寺(旧地)にいて、
光秀の討ち入りを聞いて、本能寺に向かおうとしたが、京都所司代 村井貞勝(春長軒)ら父子3名が駆け付けて、
全周を水堀で囲まれている本能寺に接近することは困難であることから、織田信忠を制止し、
妙覚寺の隣にある構えが堅固な二条新御所に移ることを進言する
織田信忠らは、二条新御所に移る
明智勢は、村井貞勝の調停により一時停戦し、
二条新御所にいた東宮 誠仁親王と若宮和仁王(後の後陽成天皇)らを内裏へ脱出させる
同日正午頃(午の刻)
明智勢の約1万が、二条新御所の包囲を終えて、織田信忠は脱出が不可能となる
織田信忠の軍勢は、1時間以上の獅子奮迅の戦いを見せ応戦すが、明智勢が屋内に突入して建物に火を放つ
織田信忠は、鎌田新介に介錯を命じて切腹し、床下に隠して焼かせたといわれる
信長の弟 織田有楽斎は、二条新御所から脱出して安土城を経て岐阜へと逃れた
同日午後2時頃(未の刻)
二条新御所での戦闘も終わる
光秀は、織田家と縁のある阿弥陀寺の玉誉清玉上人を呼び丁重に葬るよう依頼したといわれる
肥後細川家に伝わる「明智光秀公家譜覚書」には、
本能寺の変の後、光秀が細川藤孝・細川忠興父子に味方になることを説得した書状があり、
その中で、光秀は本能寺の変の後、朝廷に参内して、従三位・中将に叙任された上で、征夷大将軍の宣下を受けたと記されている
1582年(皇紀2242)天正10年6月2日 早朝午前4時頃から午後2時頃まで
<明智軍>
1万3,000名
明智光秀
明智秀満・明智光忠・斎藤利三・藤田行政・溝尾茂朝
<織田軍>
本能寺:織田信長・森成利(森蘭丸)・御小姓衆: 20から160名
二条新御所:織田信忠・村井貞勝・菅屋長頼・福富秀勝・斎藤利治・母衣衆: 500から1500名
本能寺の変の謎は多く、様々な説の伝承があり、その後の山崎の戦いでの敗因も様々な要因がいわれるが、
本能寺の変で、信長が光秀の討ち入りと聞いて一瞬で諦めたほどの戦略家・知将であった光秀は、
全て想定した上で、朝敵・仏敵となっていた信長の恐政を絶ち、秀吉・家康に安定的な世の平定を託したといわれる
<本能寺の変のタイミング>
信長の全国平定の戦略が着実に進み、織田家の重臣たちの軍団は、西国・四国・北陸・関東に出払っており、
光秀は、唯一、畿内に残って遊撃軍のような機動的に動ける特別な立場であった
5月21日に信長の嫡男 織田信忠が、5月29日に信長が、ともに上洛の目的は不明とされているが、
二人が手薄な警備の状態で京都に滞在していた
光秀は、秀吉の援軍の先陣を務めるように命じられ、公然と兵力を集められ
5月17日に坂本城、5月26日に亀山城に戻って、半月の間、自由に策略を図る時間が取れ
5月27日には愛宕神社への祈願、翌日は公家たちを集めて歌会の開催もできている
<信長の遺体>
明智勢は、信長の遺体をしばらく探したが見つからず、捕虜にも行くへを尋ねるが結局、分からずじまいだった
現在においても、火災における遺体は、DNA検査をしないと身元の判別は難しいといわれる
光秀が、信長と織田信忠の首を手にできなかったことで、信長生存の情報が錯綜し、武将たちの協力を得にくかったといわれる
<「イエズス会日本年報」>
本能寺南側から約250m離れたところにイエズス会の教会(南蛮寺)があり、宣教師達が一部始終を遠巻きに見ていた
1583年(皇紀2243)天正11年の「イエズス会日本年報」に、その様子が記されている
フランシスコ・カリオン司祭が早朝ミサの準備をしていると、キリシタン達が慌てて駆け込んできて、
危ないからミサを中止するように話した
その後、銃声がして、火の手が上がった
信長は、起床して顔や手を清めていたところに、光秀の兵は背後から弓矢を放って背中に命中させた
信長は、矢を抜き、薙刀という鎌のような武器を振り回して、腕に銃弾が当たるまで奮戦したが、奥の部屋に入り戸を閉じた
ある人は、日本の大名にならい割腹して死んだと言い、ある人は、御殿に放火して生きながら焼死したと言う
しかし火事が大きかったので、どのように死んだかは分かっていない
いずれにしろ「諸人がその声ではなく、その名を聞いたのみで、戦慄した人が毛髪も残らず塵と灰に帰した」と記されている
<明智光秀の征夷大将軍宣下>
肥後細川家に伝わる『明智光秀公家譜覚書』には、
本能寺の変の後、光秀が細川藤孝・細川忠興父子に味方になることを説得した書状が所収されており、
その中で光秀は変の後参内し、従三位・中将に叙任された上で征夷大将軍の宣下を受けたと記されている
本能寺の変の謎は多く、様々な説の伝承があり、その後の山崎の戦いでの敗因も様々な要因がいわれるが、
本能寺の変で、信長が光秀の討ち入りと聞いて一瞬で諦めたほどの戦略家・知将であった光秀は、
全て想定した上で、朝敵・仏敵となっていた信長の恐政を絶ち、秀吉・家康に安定的な世の平定を託したといわれる
<秀吉・家康黒幕説>
秀吉と家康は、朝廷と光秀が暗殺を企てている事を知っており、すぐに行動をとれるよう準備していたといわれる
家康には、信長に妻子を残虐された恨みがあった
家康は、本能寺の変の当日に信長の死を知り、すぐに堺から自国 岡崎城(愛知県岡崎市)へ戻った
中国地方にいた秀吉も翌日に知り、約2万人の大軍を約10日間で備中高松城(岡山市)から京都に戻し、
「主君信長の仇をとった武将」として絶対的な影響力と・権力を得ることに成功した
秀吉との山崎の戦いにおいては、戦国一の戦術家で知将の光秀が、大山崎の町を戦火から守るために、
必勝の戦術を取らなかったといわれる
光秀が、大山崎の町に禁制を出したのが、本能寺の変の翌日であり、
秀吉とは、山崎の地で戦うことが、あらかじめ示し合わせてあったといわれる
光秀は、山崎の戦いの前に、合戦場から少し離れた淀城・勝龍寺城の修築を行っており、秀吉の到着を待っていたといわれる
<朝廷黒幕説>
信長が、京都の寺院の焼き討ちを繰り返したり、
正親町天皇に対して、元号を変えることを強要したり、
信長が賜った従三位の官位が低いと激怒して、正倉院の財宝である香木「蘭奢待」を切り取ってしまったりし、
神格化宣言をしていた信長を恐れていた
本能寺の変の数日前に愛宕山の西坊威徳院で行われた連歌会に多くの公家などが参加し、歌で応援歌を贈ったといわれる
なお、光秀は、朝廷に謀反支援の汚名を着せないために、一言もその旨を明かさなかったといわれる
肥後細川家に伝わる「明智光秀公家譜覚書」には、
本能寺の変の後、光秀が細川藤孝・細川忠興父子に味方になることを説得した書状があり、
その中で、光秀は本能寺の変の後、朝廷に参内して、従三位・中将に叙任された上で、征夷大将軍の宣下を受けたと記されている
6月5日には、奈良 興福寺から、仏敵 信長を倒したことで祝儀を受ける
6月7日には、安土城で勅使の吉田兼和(兼見)と面会し、誠仁親王からの朝敵 信長を倒したことで進物など祝儀を受ける
<積年怨恨説>
恩人でかつての主君だった朝倉義景との戦いを命じられたこと
討ち取った朝倉義景の頭蓋骨で作られた盃で祝杯の酒を飲めと強要されたこと
比叡山の焼き討ちの実行部隊にさせられ、僧侶・学僧・一般人・老人・児童まで皆殺しにしろと命じられたこと
波多野秀治を投降させるために人質となっていた母親のことを無視され、殺されてしまったこと
丹波・近江などの領地を没収され、毛利氏を倒したら毛利領である出雲と石見を与えるとされたこと
長宗我部の仲介となって長宗我部氏を護って降伏の意志を示させたが、それを反故にされ、四国攻めを命じられたこと
など
<天下野望説>
親友の細川幽斎・細川忠興父子への手紙には、50日ほどで世を平定した後に引退する旨が記されており、
天下をとる野望はなかったといわれる
<足利義昭黒幕説>
かつての主君 足利義昭の指令
足利義昭に長年仕えていた細川藤孝が呼応していないこともあり、可能性はないといわれる
<阿弥陀寺の織田信長公本廟>
光秀は、織田家と縁があった阿弥陀寺の玉誉清玉上人を呼び丁重に葬るよう依頼したといわれる
寺伝によると、
信長が帰依していた阿弥陀寺の玉誉清玉上人が、本能寺に駆け付けた
武士たちが、藪の中で火をつけようとしていたのを見つけ、
信長の遺言で、遺骸を敵に奪われて首を敵方に渡すことがないようにと命じられたと聞く
玉誉上人は、信長の遺骸を預かり、武士たちは感謝して、これで切腹できると立ち去った
玉誉上人は、遺骸を荼毘に付して遺灰を法衣に詰め、本能寺の僧衆が立ち退くのを装って運び出す
二条新御所で亡くなった織田信忠についても、玉誉上人が遺骨を集めて阿弥陀寺に持ち帰る
玉誉上人は、光秀から、本能寺の変で亡くなった全ての人々を阿弥陀寺に葬る許可を得て、葬儀を行い、お墓を建立したという
現在、阿弥陀寺は「織田信長公本廟」とされる
<敵は本能寺にあり>
江戸時代中期以後に書かれた軍記小説「明智軍記」によると
6月2日早朝
光秀は、中国の毛利討伐に向かっていると思っていた光秀軍1万3千人に対して、
桂川を渡って京へ入るところで「敵は本能寺にあり」と発言し、信長討伐の意を告げたといわれる
<家康伊賀越えの道>
堺にいた徳川家康は、山城国南部から伊賀を超えて三河国へ逃亡した