護王神社(ごおうじんじゃ)は、京都御所の蛤御門の西に立つ神社
和気氏の氏寺である神護寺の境内に、和気清麻呂を祀った廟「護王善神堂」が由来
創建の年代は不詳
和気清麻呂が、宇佐へ配流されたときに、猪によって難事を救われたとの故事にちなみ、
狛犬の代わりに「狛猪」がおかれており、「いのしし神社」とも称される
和気広虫が、多くの孤児を養子として養育していたことから、「子育明神」とも称されるようになった
和気清麻呂が、猪に助けられ、足の不自由が回復したという故事から、足腰の病気・怪我回復の御利益があるとされている
護王神社(ごおうじんじゃ)は、京都御所の蛤御門の西に立つ神社
和気氏の氏寺である神護寺の境内に、和気清麻呂を祀った廟「護王善神堂」が由来
創建の年代は不詳
和気清麻呂が、宇佐へ配流されたときに、猪によって難事を救われたとの故事にちなみ、
狛犬の代わりに「狛猪」がおかれており、「いのしし神社」とも称される
和気広虫が、多くの孤児を養子として養育していたことから、「子育明神」とも称されるようになった
和気清麻呂が、猪に助けられ、足の不自由が回復したという故事から、足腰の病気・怪我回復の御利益があるとされている
<神門>
境内東側入口、烏丸通に面して立っている
<瑞垣・中門>
本殿の前に立てられている
<本殿>
1886年(皇紀2546)明治19年の建立
<舞殿>
本殿の前に建っている
祭神 和気清麻呂が、四神相応に従って、桓武天皇に山背国葛野郡の地への遷都を進言したことにちなんで
四神相応の図の扁額が掲げられている
舞殿内部の東西南北には青龍・白虎・朱雀・玄武の四神の絵の額が掲げられている
「重巡高雄」の扁額がある
日本海軍 重巡洋艦 高雄の艦内神社が、「高雄」の名前の由来となった高雄山にあった護王神社であったご縁による
<霊猪手水舎>
霊猪像の口から霊水が注ぎだしている
<狛猪(霊猪像)>
「日本後紀」によると
和気清麻呂が、怪僧 道鏡が皇位を奪おうとした策略を暴いたことで恨みをかい、アキレス腱を切られ足の不自由な体で
大隅国(現在の鹿児島県)に流される途中、宇佐八幡宮の近くで、道鏡の手下に襲われそうになるが、
そこに300頭ものイノシシが現れて、和気清麻呂を取り巻き護り、宇佐八幡宮に案内をしたという
イノシシは多産のため、子授け祈願・安産祈願のご利益があるといわれる
<奉納いのしし>
護王神社の境内には、全国から奉納された多数のいのししが展示されている
鳥居脇の霊猪像(狛イノシシ)
和泉石製、高さ約2.1m、像高約1m
2006年(皇紀2666)平成18年の奉納
拝殿前の砂岩製 霊猪像
1980年(皇紀2640)昭和55年の奉納
日本画家 竹内栖鳳の絵を象ったもの
<飛翔親子猪像>
祈願殿の横に置かれている
城所ケイジ氏によってチェーンソーで彫られたもの
<喜多門>
境内の北側 下長者町通に面する門
<警察消防招魂社>
境内北側に並ぶ末社の一番左にある
1946年(皇紀2606)昭和21年
京都府庁舎構内から移築された
<久邇宮家御霊殿>
境内北側に並ぶ末社の真ん中にある
1964年(皇紀2624)昭和39年
旧久邇宮邸から移築された
<祖霊社>
境内北側に並ぶ末社の一番右にある
「近衛社(きんえいしゃ)」とも称される
1971年(皇紀2631)昭和46年の建立
<伊勢神宮遥拝所>
祖霊社の東、境内奥にある
伊勢神宮の方向に向いて参拝できるところ
神明鳥居も立てられている
<願かけ猪>
本殿前に立つ招魂木(おがたまのき)の根本のイノシシの石像
<座立亥串(くらたていぐし)>
招魂木の廻りに刺し立てられている願かけの串
四手と、いのししの折り紙のついた竹串
自分の名前と願い事を書いた紙札をはさんで、願かけ猪の前に刺し立てて願かけがされる
亥串は、2本組になっている
1本は、御神木の招魂木の根元の願かけ猪の前に刺して、もう1本は、家に持ち帰って神棚や玄関に祀られる
<足萎難儀回復の碑>
御本殿に向かって右側の招魂木(おがたまのき)の側にある碑
根本の廻りには、足腰の病気や怪我の回復・健康を祈願して、小さな幟の護符が立てられている
<和気清麻呂公銅像>
境内の北側に建つ
1998年(皇紀2658)平成10年
和気清麻呂公1200年祭を記念して建てられる
造形作家 松本繁来の作
台座の「和気清麻呂公」の文字は、茶道裏千家家元 千宗室氏の揮毫
<さざれ石>
清麻呂公像のすぐ後ろに建つ
幅3m、高さ2mの大きな岩
国歌「君が代」にも詠まれている
<針乃碑>
2月8日には針供養祭が行われる供養塚
<足跡碑>
<カリンの神木>
ナシ科
正門をくぐった北寄りに立つ
秋に甘い香りの黄色い大きな実をつけ、この実で造られたカリン酒は、ぜん息によく効くといわれ、ぜん息封じの御神木とされる
樹高14m、幹の太さは1.5m、樹齢100年の巨木
京都の巨樹名木百選にも選ばれている
この実は、ほぼ3年周期で豊作、平作、不作を繰り返している
<吉井勇の歌碑>
カリンの神木の横に立てられている歌碑
吉井勇の1945年(皇紀2605)昭和20年10月から1947年(皇紀2607)昭和22年4月の頃の歌を収めた歌集「残夢」には、
榠櫨(かりん)を詠んだ歌が3首収録されている
「風なきに 榠櫨の實また ほろと落つ かくて極まる 庭のしづけさ」
「榠櫨の實 ひろひてわれの 机邊に 置きしは妹か あした香の立つ」
「風はたと 止みてしづけき 夕庭に 榠櫨の實ひとつ 落ちしを拾ふ」
そのうち、最初の一首が歌碑に刻まれている
<聖鳳殿>
舞殿の北側に隣接している
<護王会館>
境内の北側奥に建っている
<祈願殿>
本殿の南側(左側)、社務所の前に建っている
<社務所・休憩所>
イノシシの置物など、コレクションが展示されている
<護王神社絵巻>
烏丸通に面した玉垣に掲げられている絵巻
和気清麻呂と姉 和気広虫の生い立ちや功績、道鏡事件(宇佐八幡宮神託事件)、猪にまつわる故事などが語られている
<平安京をつくった人>
下長者町通の歩道に置かれた和気清麻呂を顕彰したオブジェ
奈良時代後期
769年(皇紀1429)神護景雲3年
法王となり権勢をふるっていた怪僧 道鏡は、天皇の位を自ら継ごうと、太宰府の習宜阿曽麻呂に、
宇佐八幡より「道鏡に皇位を継がせたならば、天下は太平になる」との御神託があったと奏上させる
称徳天皇から神意を確かめるよう命じられた、和気清麻呂は、宇佐八幡に向かい
「我が国は、開国以来、君主と臣下が明確になっており、臣下の者を君主とすることは未だかつて無い」
「天皇の後継者には必ず皇族の者を立てること。無道の者は早く追放すること」と御神託を受ける
和気清麻呂は、道鏡の野望を挫くが、道鏡は、和気清麻呂と和気広虫を死罪にするよう騒ぎたて、
和気清麻呂は大隅国(鹿児島県)へ、和気広虫は備後国(広島県)へ流罪にされる
<針供養祭>
2月8日
針乃碑の塚の前において、コンニャクに針を刺して供養が行われる
和裁士会、和裁協同組合の方々が参拝される
<護王大祭(ごおうたいさい)>
4月4日
祭神 和気清麻呂の命日
和気清麻呂が、偽の神託によって皇位を奪おうとした道鏡の企みを防いだ故事にもとづく
本殿ノ儀、神前で雅楽が奉納される
宇佐神託奉上儀、京都御所建礼門前まで行列が行われる
<夏越大祓>
6月30日
拝殿前に、茅(かや)で作られた直径約3mの茅の輪が設けられる
八の字を描くようにくぐり、半年間の罪穢れが祓われる
<亥子祭>
11月1日
平安時代に、旧暦10月の亥の月亥の日に行われていた宮中の御玄猪(おげんちょ)の儀式を再現した神事
宮司がついた餅を食べることによって、無病息災と子孫繁栄が祈願される
平安装束に身を纏った聖上(宮司)や祭員、奉仕女房が、拝殿の上で亥の子餅をつく儀式が行われる
出来上がった亥の子餅は、神前に献ぜられた後、提燈行列を伴い蛤御門を通って御所へ献納される
境内では、亥の子餅が参拝者に振舞われる
<十円紙幣>
1890年(皇紀2550)明治23年から1945年(皇紀2605)昭和20年
勤皇の忠臣と見なされており、戦前には十円紙幣に和気清麻呂の肖像や護王神社が印刷された
肖像は想像によるもの