走田神社(はせだじんじゃ)は、亀岡市市街地の余部町にある神社
曽我谷川の西側にある
延喜式神名帳に記載されている丹波国桑田郡十九座のうちの走田神社とされる
創建の詳細は不詳
奈良時代
711年(皇紀1371)和銅4年
勧請されて創祀されたといわれる
「三代実録」によると、
平安時代初期
873年(皇紀1533)貞観15年4月5日に、正六位上の神階を授けられた「和世田神」が由来といわれる
927年(皇紀1587)延長5年
編集が完成した延喜式神名帳の丹波国桑田郡の項に走田神社が記されている
江戸時代初期
1666年(皇紀2326)寛文6年の文書に
亀山藩藩主の尊崇も篤く、銀五枚が毎年寄進されることになったことが記されている
特に、安町村・余部村・河原町村・新家村・穴川村の氏神さんとして厚い尊崇を受けてきたといわれる
江戸時代中期
棟札の文面によると
1702年(皇紀2362)元禄15年
現在と同じ規模の本殿が建立され、盛大な正遷宮の祭典が行われたと記されている
1873年(皇紀2533)明治6年6月
郷社に列せられる
亀岡町の氏神さんとして、西の走田神社、東の鍬山神社とされていたといわれる
大正時代
隣村 篠町で小作争議が起こったとき、走田神社で、その旗揚げ集会などが行われるなど、
農業の守り神としても信仰が篤かったといわれる
男女神の二神像と童形の神像との三柱が祀られている
「新修亀岡市史」によると、
内陣内の神像は、中央が御童形の彦波瀲武盧茲草葺不合尊、左が彦火火出見命、右が豊玉姫命とされる
<彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)>
別称:火遠理命、山幸彦(ヤマサチビコ)
「古事記」に登場する
天孫の日子番能邇邇芸命と、山の神の娘の木花之佐久夜毘売の三男
<豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)>
山幸彦(彦火火出見命)が、落としてしまった兄の海幸彦の釣針を探しに行ったときに出会った龍宮に住む海の神 綿津見の娘
彦火火出見命の妃
<彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ヒコナギサタケウケヤフキアエズノミコト)>
彦火火出見命と豊玉姫命の御子神
初代 神武天皇の父親神
育ててくれた叔母(母親 豊玉姫命の妹)玉依毘売命と結ばれ、生まれた4人の子供の末っ子の若御毛沼命が神武天皇となる
<鳥居>
<神門>
<本殿>
垣に囲まれた一段高いところにある
流造、唐破風向拝
内陣内に、男女神の二神像と童形の神像との三柱の神像が祀られている
<狛犬>
向かって左の吽形の狛犬が持つ手毬には中に石があり、転がすことができる
<百大夫社>
参道脇の東側にある
祭神:猿田彦大神
<稲荷社>
参道脇の西側にある
祭神:倉稲魂尊(宇迦之御魂大神)
別称:長吉稲荷
1828年(皇紀2488)文政11年の燈篭が建てられている
江戸時代から、商売繁盛の祈願で信仰されている
<大国主社>
社殿の垣の前の左側にある
祭神:大国主命
<経津主社>
社殿の垣の前の右側にある
祭神:経津主命
<弁財天社>
社殿の向かいの池に祀られている
祭神:市杵嶋姫命
<燈篭>
1624年(皇紀2284)寛永元年に建立されたものや、
元禄・享保・元文・宝暦・安永・寛政・天保などの銘が刻まれた灯篭が20基以上ある
<社務所>
茅葺
時代劇の撮影に用いられている
<不鳴川(ならずかわ)>
境内の東を流れる潅漑用水路
かつて、社殿に掛けられていた絵馬から馬が毎夜抜け出てきて、近くの草地の草を食べ歩き、
その蹄の跡が窪地となり川となったといわれる
増水の時でも、川音を立てないことから「不鳴川」と称される
干ばつのときにも、枯れることがなく、近隣の田畑を潤してきたといわれる
川の改修や泥さらえなどをするときには、故事に従い、馬の好物である青豆をお供えして祈願される
<亀の池>
清水が湧き出て、不鳴川に注ぎ、下流の水田を潤していた
お茶(茶道)に適する水とされ、遠方からもくみに来る人が多かったといわれる
走田神社のお遣いといわれる亀が放たれ、決してイジメない風習がある
<垂乳味池>
葺不合尊を出産した豊玉姫命は、葺不合尊を残して龍宮に帰ってしまう
彦火火出見命は、豊玉姫命の妹である玉依毘売命に葺不合尊を育ててもらうことにする
玉依毘売命は、この清水でお粥を作り、お乳の代わりに食べさせたといわれ「垂乳味池」と称されるようになる
お乳の出の悪い婦人が、この清水で作ったお粥を食べると、お乳が多くさん出るようになるといわれている
<梛木>
樹高約16m、棟高幹周1.4m
<まむしの棲息地>
境内の森や周辺は、口丹波一のまむしの棲息地といわれる
決して人はかまないといわれている