氷室神社(ひむろじんじゃ)は、京都市内の北北西、鷹峯の奥、京見峠を超えて城山の峠道を降りた山里「氷室」の地にある神社
京都市内と比べ、体感10度は低いといわれる
周辺には、氷が作られていた氷室の跡、氷池跡などが残されており、氷室の産土神さんとされる
西賀茂氷室の地は、平安時代には、朝廷の遊猟地で「栗崎野」「栗栖野」と称されていた
<稲置大山主神(いなぎおおやまぬしののかみ)>
「日本書紀」によると
応神天皇皇子 額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)が大和闘鶏(現在の現奈良市)に狩に出たとき、
山中で洞窟を発見し、闘鶏稲置大山主(つけのいなきおおやまぬし)に尋ねたところ「氷室」といわれ、
その氷をもらい、宮中に持ち帰り仁徳天皇に献上したといわれる
本殿には「氷室大明神」の扁額がかけられている
痘瘡除け(とうそうよけ)の神さんとされる
江戸時代の「拾遺都名所図会」や「山城名跡巡行志」に描かれている境内とほとんど変わっていない
<拝殿(京都府登録有形文化財)>
方一間(1.8m四方)
杮葺、前後は唐破風屋根、両側面は三角の千鳥破風
正面の唐破風の蟇殿には桃山風の花鳥の彫刻が施されている
1636年(皇紀2296)寛永13年
東福門院の寄進とされる
後水尾天皇第3皇女 女二宮が、近衛尚嗣に降下したときに建てられた女二之宮御殿の鎮守社の拝殿が移設された
茶人・建築家 小堀遠州が手掛けた建物ともいわれる
<本殿>
扁額「氷室大明神」がかかる
<末社 太神宮社>
本殿の横の向って右側
「愛宕郡神社明細帳(1883年(皇紀2543)明治16年)」によると
祭神:皇太神宮
社殿梁行3尺、桁行2尺5寸
<末社 稲荷神社>
本殿の横の向って左側
「愛宕郡神社明細帳(1883年(皇紀2543)明治16年)」によると
祭神:倉稲田明神
社殿梁行3尺、桁行2尺5寸
<例祭>
6月15日
かつて宮中に氷を献上していた日に当たるという
氷室地区に残っている氏子(8軒)によって行われる
<氷室跡(京都市指定史跡)>
氷室神社から北西へ徒歩約5分のところにある
京都に10ヶ所、大和・河内・近江・丹波など各地に合計21ヶ所が設けられたといわれ、現存する唯一の跡地
1686年(皇紀2346)貞享3年
「雍州府志」によると「氷室が絶ゆ」と記されており、この時点で用いられていなかったとされる
<御殿(おとの)のお墓>
氷室跡更に北西の丘陵にある
清原頼業より、この地を治め主水司(もひとりのつかさ)を世襲していた清原氏一族が埋葬されている
分家 伏原氏のお墓もある