上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)は、上京区の鞍馬口の近く、上御霊前通烏丸東入にある神社
崇道天皇(早良親王)など平安時代初期までの八柱の怨霊(おんりょう)を鎮めるために祀られたのが由来
京都の歴史上の最大の災いである応仁の乱の発端となったところ
上御霊神社の南には、下御霊神社(現在は、寺町通に移転)があった
両社は、皇室の産土神として崇められてきた
<崇道天皇>
早良親王
光仁天皇の皇子、桓武天皇の同母弟
<井上内親王(いのえないしんのう)>
光仁天皇の皇后、他戸親王の母親
<他戸親王(おさべしんのう)>
光仁天皇の皇子
<藤原大夫神>
藤原広嗣
<橘大夫>
橘逸勢
<文大夫>
文屋宮田麿(ふんやのみやたまろ)
<火雷神>
以上六柱の荒魂
菅原道真ともいわれる
<吉備大臣>
吉備真備(きびのまきび)(吉備聖霊ともいわれる)
<本殿>
1733年(皇紀2393)享保18年
賢所御殿(かしどころごてん)を下賜され、本殿にしたといわれる
<御霊社(ごりょうのもり)>
上御霊神社の境内を「御霊社(ごりょうのもり)」と称される
<清明心の像>
中国の学者 司馬温公が、幼少の頃、数人の友人と遊んでいるときに、一人が満水の水瓶に登っていて中に落ちた
友人達が慌ててうろたえる中、司馬温公は、大石で水瓶を割って友人を救ったという故事による
1979年(皇紀2639)昭和54年
国際児童年にあたり、世界の子供たちに改めて「生命は物資よりも尊い」との精神を認識してもらいたいと創られる
<新村出の歌碑>
文化勲章の受賞者であり、国語学者の広辞苑(こうじえん)の編集者 新村出の歌碑
1956年(皇紀2616)昭和31年
上御霊神社の氏子である小山中溝町に住んでおり、80歳の誕生日に参拝されたときに献詠されたもの
「千早振神のみめぐみ深くして 八十ぢに満つる幸を得にけり」
<松尾芭蕉の句碑>
1690年(皇紀2350)元禄3年12月
向井去来ら門人と上御霊神社を参拝されて、別当家で半日を過ごし「年忘歌仙」を奉納された
「半日は神を友にや年忘」
毎月18日(5月を除く) さえずり市
<歳旦祭> 1月1日
<節分祭>
2月節分日
古神札焼納
<御霊祭>
5月1日
神幸居祭(しんこういまつり)
<御霊祭>
5月18日
還幸祭 渡御之儀
鉾、神輿、御所車(牛車)の行列がある
<大祓式(茅輪神事)> 6月30日
<例祭>
8月18日
社頭之儀、狂言奉納(茂山社中)
<御霊太鼓>
8月18日
小山郷六斎奉納
<火焚祭>
11月18日
湯立神楽奉納 火焚串お焚き上げ
<唐板の煎餅>
社前で売られる名物菓子
疫病除けのご利益があるといわれる
明治維新まで、皇室が、皇子が誕生するたびに、上御霊神社へ参詣して、唐板の煎餅をお土産にしたといわれる
<「応仁の乱勃発地」の碑>
鳥居のそばに建っている
<応仁の乱の発祥の因果>
京都の歴史上、最大の災いとなった応仁の乱の発端の地となった、東軍が陣を張った上御霊神社には、
早良親王や井上内親王など、12柱の御霊(強い怨霊)が祀られている
西軍が陣を張った西陣には、菅原道真の怨霊を鎮めるために創建された北野天満宮がある