形原神社(かたはらじんじゃ)は、亀岡市市街地、亀岡中学校の隣りにある神社
亀山藩の形原松平家の初代藩主 松平信岑(まつだいらのぶみね)を主祭神として創建された
亀山城の三ノ丸、亀山藩の政務を行っていた御館(おやかた)と称される藩庁の南西隅、大手門の東側に位置する
鍬山神社の御旅所として、秋季大祭(亀岡祭)の神幸祭から還幸祭までの間に2輦のお神輿がおかれる
江戸時代中期
1748年(皇紀2408)寛延元年8月3日
形原松平家の松平信岑(のぶみね)が、丹波篠山から亀山藩五万石に移封される
1880年(皇紀2540)明治13年11月
元藩士達の呼びかけで、松平信岑を主祭神として創建され、歴代藩主が祀られる
<主祭神 松平信岑(まつだいらのぶみね)>
亀山藩の形原松平家の初代藩主
江戸時代初期
1696年(皇紀2356)元禄9年9月10日
丹波篠山藩の第4代藩主 松平信庸の長男として生まれる
1710年(皇紀2370)宝永7年12月
従五位下、佐渡守に叙任される
1717年(皇紀2377)享保2年
父親 松平信庸の死去により家督を継ぐ
1748年(皇紀2408)寛延元年8月3日
丹波亀山へ移封される
1756年(皇紀2416)宝暦6年
従四位下に昇位する
1763年(皇紀2423)宝暦13年11月20日
死去し、光忠寺に埋葬される、享年68
亀山城の三の丸にあった亀山藩の政務を執り行っていた御館(おやかた)と称される藩庁の南、大手門の東側に位置する
<本殿の門>
正面に唐破風(からはふ)が設けられている
<本殿の透き塀>
本殿を囲っている
<本殿>
一間社流造、銅板葺
大棟の鬼板など、随所に、形原松平家の家紋の八丁子の紋が施されている
<手水>
覆屋の鬼瓦には、形原松平家の家紋の「丸に利」の紋が施されている
<舞殿>
<稲荷社>
拝殿の南側に隣接して祀られている
形原松平信岑(のぶみね)の移封にともなって、丹波篠山から遷されて、
亀山藩の政務を執り行っていた御館(おやかた)に祀られていたものを、さらに、
1881年(皇紀2541)明治14年に形原神社の創建に合わせて現在の地に遷された
<花祭>
鍬山神社の花祭に合わせて、御旅所である形原神社において、
甲冑や武具、古地図などの遺品を飾って、形原松平城主を偲ばれる
<神幸祭(亀岡祭)>
10月20日
鍬山神社から、鍬山宮と八幡宮の2輦のお神輿が氏子域を巡幸し、御旅所として形原神社拝殿に出御される
<本祭(亀岡祭)>
10月25日
2輦のお神輿が、城下町を巡幸し鍬山神社へ還幸される
<光忠寺>
亀岡市北古世町のクニッテル通にある
江戸時代の亀山藩藩主だった形原松平家の菩提寺
形原松平家6代 松平家信から20代 松平信美までのお墓がある
<丹波亀山城大手門跡>
亀山城は、内堀・外堀・惣堀の御堀と、御土居で仕切られ、城内から各方向に5つの城門が配置されていた
この付近には、南方向で正面大手への出入口としての大手門があった
<御館跡(おやかたあと)>
亀山城の三の丸にあった亀山藩の政務を執り行っていた藩庁跡
本丸御殿が手狭であったため。藩主の居場所として御館が設けられた
対面所として、典型的な大名屋敷だった
建坪:772坪、表の間:590畳、奥の間:174畳
<御勘定所跡>
形原神社の向かい側付近にある
1793年(皇紀2453)寛政5年の山陰丹府桑田亀山図には「御勘定所」と記されている
1829年(皇紀2489)文政12年の亀山藩職員録には、「勘定所大目付1名、勘定所19名」と記されている
<丸利の家紋>
手水の覆屋の鬼瓦などに、形原松平家の丸利の家紋が用いられている
4代 松平家広が大樹寺合戦のときに、「利即是」の旗を揚げて戦い、激戦のため、旗の文字が「利」の一字のみとなった
子孫が、その武勲を忘れないために「利」の字を入れた丸利を家紋としたといわれる
<八丁子紋>
形原松平氏の家紋
本殿の大棟の鬼板などに用いられている