河合神社(かわいじんじゃ)は、糺の森の南の端に立つ、下鴨神社の摂社
平安時代の延喜の制では、式内社(名神大社)に列せられていた
正式名称は、鴨河合坐小社宅(かものかわあいにいますおこそやけ)で、
「小社宅(おこそやけ)」とは社戸(こそべ)のことで、賀茂社の本宮の祭神と同じ系流の神々という意味がある
境内には、鴨長明が「方丈記」を著したといわれる方丈が復元展示されている
<社殿>
賀茂御祖神社の本殿と同じ三間社流造、桧皮葺、書院造
かつては、21年ごとに式年遷宮が行われていた
1679年(皇紀2339)延宝7年
現在の建物が遷宮される
<鳥居>
<神門>
<舞殿>
<鴨長明の方丈の庵(ほうじょうのいおり)>
一丈四方(約3m四方)の、約五畳半の広さ
間口、奥行きともに一丈四方であるところから「方丈」といわれる
随筆「方丈記」が、この方丈で著されたといわれる
大原から各地を転々とし、晩年は日野(現在の伏見区日野町)の山の中に方丈の庵を建てて隠棲した
土台状のものが置かれ、その上に柱が立てられている、移動を考えた組み立て式のプレハブ構造になっている
下鴨神社が、21年ごとの年式遷宮で本殿が造り替えられる建築様式からヒントを得たといわれる
<瀬見の小川>
河合神社の東側を流れている小川
鴨長明の歌にも詠まれている
<摂社 貴布禰神社(きふねじんじゃ)>
祭神:高籠神(たかおかのかみ)
例祭日:6月1日
1161年(皇紀1821)応保元年に記された「神殿屋舎等之事」に河合神社境内に祀られていたとされる
水の神
<末社 任部社(とうべのやしろ)>
祭神:八咫烏命(やたからすのみこと)
例祭日:11月15日
古名:専女社(とうめのやしろ)
河合神社の創祀のときよりある社
「専女」とは「稲女」とも記され、食物を司る神々が祀られていた
後に、小烏社と合祀される
サッカー必勝の守護神ともされる
<末社 六社(むつのやしろ)>
諏訪社(すはしゃ) : 諏訪大神
衢社(みちしゃ) : 八衢毘古神(やちまたひとのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ)
稲荷社(いなりしゃ) : 宇迦之御魂神
竈神(かまどのかみ) : 奥津日子神(おくつひこのかみ)、奥津比売神(おくつひめのかみ)
印社(いんしゃ) : 霊璽(れいじ)
由木社(ゆうきしゃ) : 少彦名神
例祭日:11月15日
いづれも衣食住の守護の神
1201年(皇紀1861)建仁元年の「鴨社古図」によると、河合神社に個々に祀られていた
江戸時代の式年遷宮のときに一棟となった
<末社 三井社(みついしゃ)>
祭神:中社:賀茂建角身命
東社:伊賀古夜日売命(いかこやひめのみこと)
西社:玉依媛命
別称:三塚社
かつて、下鴨神社が領有していた山代国愛宕(おたぎ)葛野郷(かづぬごう)に分霊社として祀られていた、
鴨社蓼倉郷(たてくらごう)の総社
「風土記」逸文「山城国」に「蓼倉里三身社(たてくらのさとのみいのやしろ)」と記されている現在の摂社 三井神社とは別の社
<鴨長明の木像>
河合神社資料館に展示されている
<鴨長明>
1155年(皇紀1815)久寿2年生まれ
河合神社禰宜 長継の次男として泉の館(現在の京都大学の北あたり)に生まれる
1204年(皇紀1864)元久元年
50歳の春、宮中の要職を辞して出家し、洛北大原に隠遁し、その後、大原から転々とする
1208年(皇紀1868)承元2年
58歳、現在の伏見区日野町に方丈の庵を建てて落ち着く
世の無常と人生のはかなさを随筆として著したのが「方丈記」である
1216年(皇紀1876)建保4年6月8日
62歳で死去する
<鴨長明の歌>
1205年(皇紀1865)元久2年3月
「新古今和歌集」に十首が採録される
「石川や 瀬見の小川の 清ければ 月も流れを たづねてやすむ」
<鏡絵馬>
日本古来の柄鏡(手鏡)の形をしている絵馬
祭神の玉依姫命は、「玉の様に美しい」といわれた神武天皇の母神さん
鏡絵馬に描かれた顔を自分の顔に見立て、自分の化粧道具などで絵馬にお化粧をし、外見的な美しさだけでなく、
内面的にも美しい女性になれるようにと祈願する