北白川天神宮(きたしらかわてんしんぐう)は、銀閣寺の400mほど北側の北白川にある神社
白川沿いの小高い千古山にある白川村の産土神さん
かつての比叡山山麓七里(ななさと)の産土神の一つ
<少彦名命>
主祭神
大国主命と力を合せて国土を治め医薬・酒造の神さん
飛鳥時代には、「天使大明神」と称され、白川村の産土神として久保田の森に祀られていたといわれる
室町幕府8代将軍 足利義政が、東山殿(銀閣寺)を造営するとき、久保田の森の前を通る
森の前を通る度に、甲高く鳴き、足を止めたといわれ、神威を感じたといわれる
足利義政が、久保田の森を調べると、天使大明神が祀られているのを見つけ、
天使大明神の社殿を、王城鎮護の神として、都の東北の鬼門となる山中越の入口である現在の地の千古山に
移して祀ったといわれる
<比叡山麓七里の産土神>
比叡山の山麓の七里に産土神が祀られていた
一乗村の八大神社、
高野村の御霊社(現在の崇道神社)、
修学院村の天王社(現在の鷺森神社)、
舞楽寺の天王社(八王子社、後に現在の八大神社に合祀)、
藪里の比良木天王社(牛頭天王社、後に現在の八大神社に合祀)、
山端の牛頭天王社、
白川村の天王社(現在の北白川天神宮)
3月5日の七里祭(さんやれ祭)のときには、修学院村の天王社に各社の神輿が集まったといわれる
<安産祈願>
藁(わら)を授かって、妊婦のお腹に巻いて安産祈願をしたといわれる
藁の節が奇数の場合には男子、偶数の場合には女子が産まれるといわれた
<白川萬世橋(まんせいばし)>
社前の白川に架かる眼鏡橋(アーチ式)の白川石による石橋
擬宝珠には菊花文、橋欄に照高院の雪輪菊文の飾りがある
1894年(皇紀2554)明治27年に架橋された
<歌碑>
藤原為教「秋の夜の月も猶こそ澄みまされ 世々にかはらぬ白川の水」
西行「風あらみ梢の花乃なかれ来て庭に波立つ白川の里」
<石鳥居>
明神鳥居、東照宮形
笠木が柱上部付近より反りがつけられている
1673年(皇紀2333)延宝元年の造立
1830年(皇紀2490)天保元年の道晃子法親王筆の社額が掛かっている
<花塚>
鳥居の右側にある
<白川女の顕彰碑>
平安時代から
白川一帯は花畑が広がり、花売りの白川女が、頭の藤蓑に花を載せて「花をいらんかえ」と売り歩いた
<手水舎>
石段の下にある
名水とされ、汲みにくる人たちも多い
<石段>
133段
<本殿>
1988年(皇紀2648)昭和63年
本殿の大掛かりな修復工事が行われる
<拝殿>
三十六歌仙の額が掲げられている
<摂社>
拝殿の左
右から、八幡宮(日吉大神)・春日大明神(春日大神)・日吉社(八幡大神)を祀る
石段横の斜面には、多くの摂社・末社がある
<末社 天照社>
拝殿の右手にある
<末社 加茂社>
拝殿の右手にある
<末社 瑜宮稲荷社>
<北白川御殿>
平安時代
白川街道沿いに貴族の山荘が営まれ、文章博士 三善清行の「花亭」もあった
1619年(皇紀2279)元和5年
後陽成天皇の弟 興意法親王が、妙法院に建立し、
豊臣家滅亡とともに廃絶していた照高院を白川村外山(現在の仕伏町)に再興する
伏見城の二の丸松丸殿が移築され、紋章の雪輪を用いたことから「照高院雪輪殿」と称される
後に、聖護院の隠居寺になる
伏見宮邦家親王王子 智成親王、兄の能久親王が移り住み、「北白川の宮家」「北白川御殿」と称される
1875年(皇紀2535)明治8年に廃絶する
<長生館>
<社務所>
<ご神木>
石段下に対の檜(ひのき)の大木が立っている
<明治天皇の歌碑>
「いはほきる音もしめりて春雨のふる日しづけき白川の里」
<都紅糸桜>
参道を横切る白川沿いに立っている
<医学者 清水勉の碑>
京都市、亀岡市、南丹、福知山で開業しているシミズ病院グループの創設者
医道の祖神 少彦名命に感謝を表す記念碑
薬草をすりつぶす薬研(やげん)の形をしている
<石恩>
石段の途中にある白川石の銘石のオブジェ
鎌倉時代以降
白川一帯では良質の花崗岩 白川石が産出し、寺社の建築石材、灯籠や石像など石像彫刻にも用いられた
兵庫県石材業組合連合会から寄贈されたオブジェがある
<鉄製 黒鉾(くろほこ)>
908年(皇紀1568)延喜8年の銘がある
後小松天皇の御所造営のときに、里人奉仕記念として下賜されたといわれる
疫病流行のちきに、祇園御霊会に参加したことにより下賜されたともいわれる
鉾は、宮座の壱之鉾に伝えられてきた
<御弓式>
1月15日
<綱引の儀式>
1月15日
上寺・下寺の2組による
<花行列>
4月6日
花売り装束の白川女が花車とともに行列する
<北白川高盛御供(たかもりごく)>
10月第1日曜日早朝
この日から1週間続く秋の大祭の最初の儀式
高く盛りつけた神饌を神前にお供えする
黒木綿の着物に、紅色の三幅前垂、白足袋の白川女により、頭に載せて天神社に運ばれる
神饌
前日の夜半より早朝にかけて裃姿の男性によって作られる
炊き上がりの白飯を臼の型にはめ込み、太い注連縄で縛った「盛相(もっそう)」
小芋、大根なます、きざみ鯣(するめ)を味噌を繋ぎとして、それぞれ円錐形に高く盛ったもの
白豆腐の上に神箸や、開いた干物の飛魚やシイラ、柿、青豆など
かつては、高盛献饌の義の後で、神輿渡御が行われていた
現在は、本殿から麓の道を隔てた御旅所に御羽車によって祭神を遷す「御神霊遷し」が行なわれている
萬世橋の前で、白川太鼓が披露される
<神幸祭>
還幸祭の3日前
3組の氏子が、宮座組織「当家制(とうやせい)」で神鉾を奉祭していた
現在も「鉾仲間」により行われている
<還幸祭>
10月の体育の日の前日の日曜日
御旅所に滞在していた御神霊が氏子地域を神輿に乗って渡御する
先頭は、剣差しで長い「剣鉾」を持ち、鈴を鳴らしながら独特の足運びで行進して
神さんがお渡りになる道筋を剣と鈴によって祓い清め、悪霊を鎮める
剣鉾は、祇園御霊会の古い祭の形態とされる
夕暮れに、39個の提燈を灯されたお神輿が、篝火に照らされて130段の石段を登りきり本殿へと向かう
急な石段では、神輿の担ぎ手に参拝者も一緒になってお神輿が引っ張り上げられる
<宮座>
壱之鉾・弐之鉾・三之鉾の3つの鉾仲間が組織されている
壱之鉾
もっとも古く、40軒で構成されている
後小松天皇に下賜されたという剣鉾「黒鉾」を伝えている
室町時代には、祇園御霊会に「白川鉾」として参加していたといわれる
<印地の大将(いんじのたいしょう)>
印地(いんじ)は、石を投げ合って勝敗を争う競技
相手を殺傷することもあった
源義経に兵法を伝授したとされる陰陽師 鬼一法眼
鬼一法眼の娘婿に、北白川天神宮に奉仕していた印地の大将 湛海(赤山の東海坊)がいた