桑田神社(くわたじんじゃ)は、亀岡市の東部の篠町山本、保津川(桂川)の右岸の保津峡の入口付近にある
JR山陰本線(嵯峨野線)馬堀駅から東へ約800m、トンネルの入口手前、保津川を見下ろす高台の上にある
延喜式神名帳に「丹波国桑田郡 桑田神社」と記載される式内社であると論じられている
丹波湖開拓伝説による、保津峡を切開き開拓したという大山咋神が、開削に使った鋤と短剣が納められ祀ったとされる
保津川の対岸の左岸には、同じく丹波湖開拓伝説の請田神社がある
近くの亀岡市馬堀東垣内に、同じく式内社とされる、同じ祭神 市杵島姫命を祀る桑田神社があり、
「篠村史」によると、本神社の元宮ともいわれる
篠村七郷(篠町)の氏神さんとして信仰されている
創始は不詳
この地は、保津川を見下す景勝の地にあり、古代集落の形成に適し、亀岡盆地の入口に当り、政治的にも重要な地とされ、
秦氏の勢力が、いち早く治めた地といわれる
平安時代中期
927年(皇紀1587)延長5年
延喜式神名帳に「丹波国桑田郡 桑田神社」と記載される式内社であると論じられている
江戸時代中期
天明年間(1781年〜1789年)
社殿が焼失し、社伝資料なども焼失してしまう
1893年(皇紀2553)明治26年刊の「大日本史神祇志」には、当地の地名が「桑田」であることが記されている
1873年(皇紀2533)明治6年6月
近代社格制度において村社に列する
それまでは、保津川対岸の請田神社と同じく「請田神社(浮田神社)」と称されてていた
現在の保津峡が「浮田峡(うけたきょう)とも称されていたため、保津峡の入口にあたり浮田明神として祀られていたといわれる
1877年(皇紀2537)明治10年6月
式内社 桑田神社と公称する
1952年(皇紀2612)昭和27年
台風で社殿が全壊する
山の檜の収益で再建される
主祭神
<市杵島姫命>
配祀神
<大山咋神 >
<大山祇神>
<丹波湖開拓伝説>
1893年(皇紀2553)明治26年刊の「大日本史神祇志」などによると、
市杵島姫命・大山咋神は、鍬山神社の祭神とともに、かつて湖であった亀岡盆地を開拓のため、
自ら鍬鋤を持って保津峡を開削して水を流し出したといわれる
保津川の対岸の左岸には、同じく丹波湖開拓伝説の請田神社がある
<石標「延喜式内 桑田神社」>
<鳥居>
<手水舎>
鯰(なまず)から水盤に水が注がれている
<拝殿>
<本殿>
流造
<地主神社>
本殿の右側にある
<五社神社>
本殿の左側にある
<天満宮>
五社神社の横にある
<水神宮>
五社神社の横にある
<野々神社>
祭神:九頭龍大神
ご利益:足の病
<秋葉宮>
境内奥を登って行った山の中腹にある
<祓戸宮>
参道階段を上がったところにある
祭神:祓戸大神
<水神宮例祭> 1月3日
<例祭> 10月25日
<地名>
かつては、亀岡盆地は湖であり、鍬山神社・桑田神社の祭神らにより開拓されたといわれる丹波湖開拓伝説がある
丹波湖が干上がり、この辺りは良い桑畑となったといわれ、桑田(桑畑)が社名になったといわれる
この地は「田庭」と称されており、国名の「丹波」の由来になったといわれる
いち早く移住してきた秦氏により、田庭には早稲を作ったり桑を植えて養蚕が営まれたといわれる
<鯰(なまず)>
参道などの赤い旗(幟)には、2匹の鯰が八の字に描かれている
手水舎の水の注ぎ口にもなっている