乃木神社(のぎじんじゃ)は、伏見桃山の明治天皇陵の南にある神社
祭神の乃木希典(のぎまれすけ)は、「乃木大将」と呼称される、明治時代の陸軍大将
明治天皇の崩御にともなって、静子夫人とともに自ら殉死される
死してもなお天皇を護ろうと南面する明治天皇 伏見桃山陵に向けて、北面の武士として祀られている
陸軍大将 乃木希典と静子夫人
<乃木希典大人之命(ノギマレスケウシノミコト)>
軍事参議官 兼 学習院長 陸軍大将 従二位勲一等 伯爵 乃木希典
<乃木靜子命(ノギシズコノミコト)>
<辞世の詠>
「うつし世を 神去りましし大君の 御あと慕ひて 我は逝くなり」希典
「神あがり あがりましぬる大君の みあとはるかに をろがみまつる」希典
「出でまして かへります日のなしときくけふの御幸に 逢ふぞかなしき」靜子
伏見城があったとき、板倉周防守の屋敷があった場所といわれ、地名の由来となっている
<神門>
四脚入母屋造平入の木造銅版葺(創建時は檜皮葺)
樹齢3千年、幹の直径2m以上といわれる台湾阿里山の台湾檜の1幹で造られた
乃木大将は、第3代台湾総督を勤め、台湾の人たちにより調達された
扉の内側は、紅檜一枚板でできている
<石鳥居>
稲荷式石鳥居、周囲2.3m、花崗岩
創建時に、京阪電気鉄道株式会社によって奉納された
扁額の「乃木神社」の揮毫は、開院宮載仁親王の真蹟を青銅で鋳たもの
<本殿>
北に明治天皇 伏見桃山陵、京都御所があるため、南面ではなく北向きに建てられている
春日造、檜皮葺
楠木正成を祭神とする湊川神社と同一の春日造とされた
現在は、銅板葺にされている
<拝殿>
四面解放式入母屋造、天井・欄間等に装飾がない重厚で素朴な建物
正面鴨居には絵馬額が掛かる
<内苑>
本殿の周辺の回遊路
「乃木三絶」と称される真筆の3つの詩碑と、四季の草木が観賞できる
創建百周年記念事業として整備された
回遊路は、創建当初から「お百度参り」の順路として信仰されている
詩碑 金州城下の作(きんしゅうじょう)
「山川草木轉荒涼 十里風腥新戰場 征馬不前人不語 金州城外立斜陽」
長男 乃木勝典が戦死した南山の戦跡を弔い、山上の戦死者の墓標に向けて弔辞を供えた後に読んだ詩
詩碑 爾霊山(にれいさん)
「爾霊山険豈難攀 男子功名期克艱 鐵血覆山山形改 萬人齊仰爾霊山」
二〇三高地の激戦の地で、戦没の将兵を弔う慰霊式に臨んだときに詠んだ
詩碑 凱旋(がいせん)
「皇師百萬征強虜 野戰攻城屍作山 愧我何顔看父老 凱歌今日幾人還」
1963年(皇紀2623)昭和38年秋、日露両国の講和条約の成立を聞き、凱旋帰国の日を思って心境を詠った
<摂社 山城ゑびす神社>
本殿の西隣にある
「南山城地域唯一のゑべっさん」といわれる
1月9日・10日には、ゑびす祭が行われる
1919年(皇紀2579)大正8年
創建者 村野山人は、創建時に乃木夫妻、息子 乃木勝典・乃木保典の四柱を本殿にお祀ることを内務省に願い出たが、
乃木大将一柱の奉祀しか許可されなかったことから、靜魂神社が建立される
2006年(皇紀2666)平成18年
靜魂神社に恵比須神を首座とする七福神が合祀され「靜魂七福社」と称されるようになる
2015年(皇紀2675)平成27年
山城ゑびす神社の本殿の修復工事のため遷座祭を行ったとき、
七福神の奉祀をあらため、主祭神である恵比須神のみ奉祀することとなる
<手水 勝水>
手水に湧き出す水
かつての伏見城の名水と水源を一にする名水
武運長久の御神水として、家に持ち帰り、神棚に供えて、家運の隆盛、健康長寿を祈願されてきた
周辺開発により枯渇する
2006年(皇紀2666)平成18年6月
掘削により地下80数mのところでから取水に成功し、60数年ぶりに復活する
<勝ちま栗>
手水の横に祠がある
勝粟は、戦場に出る武士がこれを食べて出陣したといわれる
乃木大将の大好物でもあった
全てが勝運に結びつくという信仰から「全てに勝ちま栗の祠」と名付けられた
2006年(皇紀2666)平成18年6月
湧水が復活したその日、参拝者から寄進される
<乃木将軍の愛馬 壽号・璞号>
拝殿前の左右に安置されている
乃木大将が常用された愛馬のうち、ロシアの将軍ステッセルから贈られた白馬 壽号(すごう)とその子馬 璞号(あらたまごう)の銅像
壽号は、後に日本の軍馬改良のため種産馬として、軍馬の大型化に貢献したといわれる
創建当時の璞号・壽号の銅像は、大東亜戦争で金属供出にされる
1981年(皇紀2641)昭和56年、全国崇敬者の浄財によって往時の雄姿が再現された
<長府乃木邸(復元)>
乃木大将が幼少の、長府国(山口県)で父母妹達と慎ましい生活をしていたときの旧宅
父親 乃木十郎希次希次は、毛利藩に仕え、江戸麻布毛利邸で槍術及礼法小笠原流の指南番をする禄高百五十石の武士だった
幕末維新の藩政改革のときに改革案を上申し、上級藩士の機嫌を損ね減禄二分の一となり、
一家は江戸を追われ、長府国(山口県)に帰り、閉門蟄居の身となり、足軽の家を借りて、家族七人が住んだ
復元旧邸の右側の米搗場では、乃木少年が米を搗きながら本を読んでいるところ
左側の等身大の塑像は、大将の父親 希次と母親 寿子と少年時代の乃木大将の姿
乃木大将の甥 長谷川榮作の作
<記念館>
内部は展示館となっている
日露戦争の際南満州(現在の中国東北部)の柳樹房にあった周玉徳・周金夫妻の住居を借り上げ、
乃木大将が、第三軍司令部として旅順攻囲戦の指揮を取り、約1年間、住居されていた建物
創建時に、村野山人が、現地に赴き、この家屋を周玉徳から買い受け、家屋を解体し、土台石など資材一切を運搬移築し記念館とした
外部様式と左手奥の間の乃木大将寝室は、当時のまま残されている
建物の腰石は、現地で使われていた物で、5億年以上前に形成された漣痕模様の化石がみられる成珪岩という貴重なもの
特に「漣痕」という地層表面に風や波でできる模様の化石が見られ、学術的にも貴重な標本となっている
<宝物館>
蔵造二階建
乃木大将の直筆の遺墨や、遺品の他、日露戦争前後の関係資料を展示した資料館
創建と同時に建てられた
<学習院長時代の乃木大将胸像>
1966年(皇紀2626)昭和41年
明治天皇の皇孫 迪宮裕仁親王が学習院に入学するに先立ち、
乃木大将は、明治天皇より「華族の教育の事、総て卿に一任す」との勅命を賜り、学習院長に親任された
現代彫刻の先駆者 小倉右一郎が、学習院長時代の姿の写真から胸像にされた
<乃木将軍景仰の碑>
大阪の一女史が、徳富蘇峰に執筆を依頼し、乃木大将の景仰碑を自宅庭に建て顕彰されていたもの
乃木神社に寄贈された
<忠魂碑>
揮毫:陸軍大臣 陸軍大将 南次郎
1931年(皇紀2591)昭和6年3月30日、京伏合併記念會による建立
<慰霊碑 英霊よ安らかに>
揮毫:京都府知事 林田悠紀夫
1984年(皇紀2644)昭和59年5月30日、伏見区遺族会による建立
<乃木三典一靜之松>
「三典」は、父親 乃木希典と長男の乃木勝典、次男の乃木保典の3人
<巡洋艦吾妻の主錨>
日露戦争のとき、活躍した装甲巡洋艦「吾妻」の主錨を、慰霊のモニュメントにした旧海軍将兵慰霊碑
<村野山人翁之像>
乃木神社の創建者 村野山人の立像
村野山人は、明治天皇の葬儀に京阪電車代表として参列中に、乃木将軍夫妻の殉死を聞き、強い衝撃と感銘を受けたとされる
<さざれ石>
国歌「君が代」にも詠われているさざれ石
土中の石灰質が、雨水等によって溶け出し、地中の砂礫の間に滲み込み凝固し、数万年を経て巌(いはほ)となって形成されたもの
明治天皇 伏見桃山陵の墳丘上面は、さざれ石で葺かれている
<棗の木(ナツメ)>
拝殿手前と、記念館左側に育成されている
乃木大将とロシアの将軍ステッセルが、水師営で会見し、互いの健闘を讃えた
文部省 小学唱歌「水師営の会見」にも歌われている、その会見所の庭にあった一本の棗の木の子木が移植されたもの
横には「水師営の会見」の歌詞が記された札が立てられている
<絵馬>
拝殿の正面に掲げられている
乃木将軍の愛馬が駆け巡る姿
彫刻界の巨匠 後藤貞行が、欅の一枚板に彫り上げた奉納絵馬
<記念館の腰石>
日露戦争の際南満州(現在の中国東北部)の現地で使われていた物で、
5億年以上前に形成された漣痕模様の化石がみられる成珪岩という貴重なもの
特に「漣痕」という地層表面に風や波でできる模様の化石が見られ、学術的にも貴重な標本となっている
<宝物館>
乃木大将の直筆の遺墨や、遺品の他、日露戦争前後の関係資料が展示されている
<歳旦祭> 1月元旦午前0時
<ゑびす祭>
1月10日午前11時
摂社 山城ゑびす神社の祭礼
商売繁盛・社運隆昌を祈願される
<紀元祭>
2月11日午前11時
神武天皇の御聖業を景仰し、皇室の弥栄と国家の隆昌、国民の安寧を祈念する
<祈年祭>
2月17日午前11時
「としごいのまつり」と称され、年の初めにあたって、穀物の豊穣を祈るとともに、国の安泰が祈願される
収穫の秋に豊かに稔った新穀を神前に供え神さまの恵みに感謝する新嘗祭と対をなす祭
<例祭>
9月13日午前11時
祭神 乃木希典・靜子御夫妻の命日であり、乃木神社の創建日
<明治祭>
11月3日
明治天皇の御生誕日
<新嘗祭>
11月23日午前11時
収穫の秋に豊かに稔った新穀を神前に供え、神さまの恵みに感謝し皇室の弥栄と国家・国民の安泰を祈願する
<除夜祭> 12月31日午後11時
<月次祭> 毎月13日午前11時
<成長祈願だるま>
毎年、少しずつ大きいダルマを得て、自らの成長と感謝を表す
<勝守(かちまもり)>
スポーツ試合、昇進、受験、闘病、出世など、願い達成への道が開く勝守