彼方神社(おちかたじんじゃ)は、宇治川に架かる宇治橋の東詰から北東にある神社
延喜式神名帳に記載されている式内社小社 阿刀神社とされる
「源氏物語」第46帖宇治十帖「椎本」ゆかりの地とされ、椎本之古跡とされる
<宗像神(宗像三女神)>
天照大御神と素戔嗚尊の誓約で生まれたとされる三柱の女神
江戸時代には、
諏訪大社の祭神である建御名方神を祀っていたといわれ、
当社のことを「諏訪大明神」とも称される
大物主神を祀っていたともいわれる
石垣の築かれた小高く狭い区画にある
<石鳥居>
<石標「式内彼方神社」>
<本殿>
鳥居をくぐって右側の小さな祠
一間社流見世棚造
<大岩>
本殿の右奥(北東側)におかれている
<燈籠>
「諏訪大明神」と刻まれている
江戸時代中期、1733年(皇紀2393)享保18年11月建立の銘がある
<石碑「椎本之古跡」>
「源氏物語」第46帖宇治十帖「椎本」ゆかりの地とされ、椎本之古跡とされる
境内に2本の椎の木があったといわれる
源氏の子 薫が、亡くなった桐壺帝の第八親王 八の宮を偲んで詠んだ歌
「立ち寄らむ 陰とたのみし 椎が本 むなしき床に なりにけるかな」にちなむ
<例祭> 12月6日
<彼方(おちかた)>
地名は「乙方」とされ、「彼方」「大路方」とも記されていた
境内が、宇治橋を通る奈良街道に面していることから、「大路方(おおじかた)」と称したのが「おちかた」に転訛しともいわれる
宇治川が山峡から流れ出す(落ちる)ところにあたり「落方(おちかた)」と称されたといわれる
都があった大和から見ての遠方、宇治川の向こう側から「彼方(おちかた)」と称されたともいう
<彼方の疎林の松原(おちかたの あららのまつばら)>
「日本書紀」によると
弥生時代 201年(皇紀891)神功皇后摂政元年3月の条に、
九州から畿内に帰還した神功皇后の軍と、皇位継承争いから反乱を起こした仲哀天皇の皇子 忍熊皇子(おしくまのみこ)の軍が
菟道(宇治)で戦ったとき、忍熊王の軍の先鋒 熊之凝(くまのこり)が、味方の兵を激励して歌った歌
「烏智箇多能 阿邏々麻菟麼邏(彼方の 疎林の松原) 松原に 渡り行きて 槻弓(つくゆみ)に まり矢を副へ」
「貴人は 貴人どちや 親友はも 親友どち いざ戦はな 我は」
「たまきはる 内の朝臣が 腹内は 小石あれや いざ戦はな 我は」(熊之凝)
この「烏智箇多」は、この地「彼方」のことといわれる
<「源氏物語」第46帖宇治十帖 椎本の巻>
桐壺帝の第八親王 八の宮から、源氏の子 薫への贈歌
「山風に 霞吹きとく 声はあれど 隔てて見ゆる 遠方の白波」
匂宮が、薫に代わって八宮への返歌
「をちかた(遠方)こちの汀に 波は隔つとも なほ吹きかよへ 宇治の川風」