小川月神社(おがわつきじんじゃ)は、亀岡市の北西部、千代川駅の川東の馬路町にある神社
南丹高校南部の田畑の中にある
かつて桑田郡小川郷でったことが社名に由来し、この地を中心とした約1.3haの田地の地名が「月読」とされていた
すぐ西側を流れる桂川(保津川)の下流には、松尾大社の摂社 月読神社があり、
秦氏によって、桂川をさかのぼるように開発が進められ、それにともなって創建されたといわれる
延喜式神名帳に記載されている丹波国の式内社十九座の中の大社二座の一つとされる
祀始は不詳
すぐ西側を流れる桂川(保津川)の下流には、松尾大社の摂社 月読神社があり、
秦氏によって、桂川をさかのぼるように開発が進められ、それにともなって創建されたといわれる
「丹波国桑田郡小川月神社之事」(氏子総代所蔵)によると、
神代の時代からこの地に祀られており、
伊勢神宮が、まだ丹波国や丹後国与謝郡で祀られていたときの末社とされる
出雲神社(現在の出雲大神宮)の創建よりも古く、同出雲神社と同等の神社で「桑田郡の第二之大社也」と記されている
平安時代初期
859年(皇紀1519)天安3年1月27日
小川月神が、従五位下から従五位上に昇叙される
平安時代中期
延喜式神名帳に記載されている丹波国の式内社十九座の中の大社二座の一つとされる
「丹波国桑田郡小川月神社之事」(氏子総代所蔵)によると、
鎌倉時代中期
建長年間(1249年〜1256年)の頃
鎌倉幕府第5代執権 北条時頼が諸国を巡ったときに参拝され、家臣 人見次郎貞村に神社の守護を命じたといわれ
人見家が30代にわたって、春秋の大祭などの奉仕をしてきたといわれる
「丹波国桑田郡小川月神社之事」によると、
室町時代
応永年間(1394年〜1428年)
保津川の洪水によって社地を流失、境内が縮小されてしまう
「神社明細帳」によると、
戦国時代
応仁年間(1467年〜1469年)
保津川の洪水によって社地を流失し、以後、小祠として祀られるようになったとされる
1877年(皇紀2537)明治10年6月
京都府名義の確認書に「月読社 延喜式内小川月神社ニ相違無之候」と記されており、
式内社名神大社であったとされる
<月読命>
すぐ西側を流れる桂川(保津川)の下流にある松尾大社の摂社 月読神社の祭神と同じ祭神
「神社明細帳」によると、
周囲の耕地を指して「字月読」という、と記されている
範囲は1.3haとされる
<石標「延喜式内 名神大社 小川月神社」>
<本殿>
一間社流造、覆屋内に立っている
<拝殿>
方一間、妻入、瓦葺
出雲大神宮より移築されたものであるといわれる
<祈年祭>
4月2日
<例祭>
10月16日
1年間に誕生した氏子の子供全員の祈祷が行われる
<対岸の月読神社>
保津川(桂川)の対岸の千代川町小川にも、同じく月読命を祀る月読神社がある
平坦な亀岡盆地を流れる保津川は、少しの大雨で頻繁に流路が変わってきたといわれる
かつて、保津川は、もっと東側を流れており、西側一帯を「小川郷」と称されていた
その後、保津川の氾濫で、現在の流路となり「小川郷」が、保津川によって分断されてしまう
そのため、保津川の西側の地域で、小川月神社から勧請して月読神社を新たに創建されたといわれる
<月読橋>
亀岡市の馬路町と千代川町を結ぶ保津川の橋