大原野神社(おおはらのじんじゃ)は、平安時代は、公家や貴族の狩猟の地であった大原野にある神社
桓武天皇の皇后 藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)が、藤原氏の氏神である春日大社の分霊を勧請して祀ったのが由来
春日大社と同じ祭神の春日大神が4つの社殿に祀られており、「京春日」とも称される
一の鳥居から本殿までは、紅葉と桜のトンネルが続く名所
4月中旬〜5月上旬には牡丹(ボタン)、6月上旬〜9月初旬頃まで睡蓮の名所
境内は、8万3千m2あり、うち6万6千m2が林になっている
<本殿>
春日造・檜皮葺(ひわだぶき)朱塗り
春日大社と同じく4社殿ある
慶安年間(1648年〜1652年)の再建
<手水舎>
藤原氏の氏神(春日大社、吉田神社、西院春日神社など)には、手水舎に鹿がおかれている
<瀬和井の清水(せがいのしみず)>
参道途中にある清水
「伊勢物語」「古今和歌集」など多くの和歌にも詠まれた名水
大伴家持(おおとものやかもち)が愛飲したといわれる
<鯉沢の池(こいさわのいけ)>
参道の途中にある池
文徳天皇が、奈良の「猿沢池(さるさわのいけ)」を模して作ったといわれる
睡蓮の名所
<末社>
本殿の西脇に祀られている
八坂社、稲荷社、祓戸社
<神鹿苑>
1966年(皇紀2626)昭和41年から1995年(皇紀2655)平成7年まで、春日大社より鹿を譲り受け飼育されていた
<椎(しい)>
ブナ科のツブラシイ
<樅(もみ)>
マツ科のモミ
社務所の北側に立つ
<いちいがし>
ブナ科のイチイガシ
北側は急傾斜地になって椎ノ木川があり、南側は緩傾斜地になって畑地になる
<植松壽樹の歌碑>
「竹群に降る音ありて更くるるらむ 雪の一夜を来て泊りたし」
<富小路禎子の歌碑>
「母胎より 彼岸に至るここの道 いましばらくの緋なる夕映」
富小路禎子(とみのこうじよしこ)は、藤原氏の末裔、二条家の流れをくむ歌道の家に生まれる
<例祭(れいさい)>
4月8日
大原野産のたけのこの初堀りを神前に供えて、国家安泰が祈願される
<御田刈祭(みたかりさい)>
9月第2日曜日(戦前までは9月10)
1717年(皇紀2377)享保2年の始まり
五穀豊穣を奉謝して神相撲が奉納される
神事の後、両力士が、清めの塩を包んだ半紙を口にくわえ、四本柱を塩で清めて相撲をとる
2回戦かい、最初は東の力士が西の力士を押し切り、次は西の力士が東の力士を押し切り1勝1敗で終る
少年横綱土俵入奉納、奉納相撲大会では小学生や幼児、生後1年前後の男子乳児なども参加する
<業平の塩竈>
876年(皇紀1536)貞観18年
十輪寺に隠棲していた平安時代の歌人 在原業平が、
かつての恋人であった清和天皇の女御となった二条后(藤原高子)が大原野神社に参詣した時にお供し、
「大原や小塩の山もけふこそは 神代のことも思い出づらめ」との和歌を詠った
また、塩竈を焼き紫の煙を立ちのぼらせて彼の想いを彼女に送ったといわれ、二条后も、その紫の煙を見て、
悲しみの涙にくれたといわれる
<入野神社(式内社)>
かつて、現在の大原野神社の地にあったといわれる
また、大原野神社の御旅所だったともいわれる
現在は、大原野神社と同じ祭神が祀られている