大石神社(おおいしじんじゃ)は、赤穂浪士 大石良雄(通称「大石内蔵助」)の義挙を顕彰するため創建された神社
稲荷山の東麓にあり、大石良雄(おおいしよしお)が山科で隠棲した邸宅の近くに建立された
12月14日の討入りの日には、山科義士まつりが行われる
主君の仇討ちという大願を果たした祭神に因み、「大願成就」の神徳で信仰を集める
南へ行くと、隠棲した邸宅跡碑と赤穂義士四十七士を祀る岩屋寺がある
祭神は、江戸時代中期の赤穂義士首領 大石良雄(おおいしよしお)
生年:1659年(皇紀2319)万治2年
没年:1703年(皇紀2363)元禄16年2月4日(享年45)
大石良昭の長男
通称、内蔵助(くらのすけ)
1679年(皇紀2339)延宝7年
21歳のときに赤穂藩 筆頭家老となる
<本殿>
流造
<桜門>
<末社 義人社>
祭神:天野屋利兵衛(あまのやりへい)
天野屋利兵衛は、討入のための武器などを調達をしたといわれる大阪北組惣年寄の豪商
大阪 本町橋に店をかまえ「商売の神様」 と称され、商売繁盛の信仰が篤い
「天野屋利兵衛は、男でござる」との名ゼリフがある
<御神木 大石桜>
鳥居をくぐった右側に立つ枝垂桜
1935年(皇紀2595)昭和10年
この地に生育していた枝垂桜(しだれざくら)を、社殿竣工にあわせ御神木とされる
4月第一日曜日にさくら祭が行われる
<忠臣蔵宝物館>
大石良雄の討入り像や肖像画などを展示されている
<歳旦祭> 1月1日
<義士自刃命日祭(命日祭)> 2月4日
<櫻花祭(お火焚神事)>
4月第一日曜日
御神木「大石桜」のもと「さくら祭」が行われる
琴の演奏の中、武者小路千家による献茶式、お茶席が設けられる
<例祭>
4月14日
神社役員総代参列のもと、国の繁栄と信仰者の大願成就・家内安全・社運隆昌が祈願される
<大石公山科隠棲祭(夏祭)>
7月最終日曜日
大石内蔵助が、6月25日に赤穂を離れ、28日に山科西野山の里に移住したことにちなみ、
隠棲された6月28日に近い日曜日に行われていた
1991年(皇紀2651)平成3年
新暦に改め、7月最終日曜日に夏祭としても催されるようになる
<夏越祓>
6月30日
<義挙大祭(義士祭)(山科義士まつり)>
12月14日
討入り当時を再現する「義士行列」が行われ、山科区より四十七士が選ばれ、
大石内蔵助をはじめとする表門隊・裏門隊・幼稚園児による四十七義士・遥泉院など女人列・
祇園一力亭での様子など、総勢約300人の奉仕により再現される
境内においては、義挙大祭が行わ、献茶・献花・浪曲・剣舞・剣道などが奉納される
<大祓式>
12月 31日
江戸時代中期
1701年(皇紀2361)元禄14年3月14日
播州赤穂藩主 浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、江戸城内 松の廊下において、
典礼の儀で恥をかかせた吉良上野介義央(きらうえのすけよしなか)を斬り付けた
この日、将軍 徳川綱吉が勅使に奉答する儀式が行われる予定で、尊皇的だった徳川綱吉は、
儀式を台無しにされたことに激怒し、浅野長矩は、即日切腹、浅野家断絶、領地没収となる
吉良上野介に対しては、殿中をはばかり、手向かいしなかったとして無罰であった
赤穂藩では、家中が、篭城か開城かで意見が対立するが、
城代 筆頭家老 大石内蔵助良雄は、血を流すことなく赤穂城を明け渡しの後、
6月25日に赤穂を離れ、
6月28日、親戚 進藤源四郎の世話で、閑静で人目につきにくく、交通に便利な山科西野山の里に隠棲する
1702年(皇紀2362)元禄15年夏
同志を押さえ、亡主 浅野長矩の弟 浅野大学長広を立てて主家の再興を図ったが、
再興は許されず、浅野大学長広は広島藩お預かりとなり、浅野家の再興は絶望的となる
大石内蔵助は、吉良上野介邸討入りの方針を固め、京都で同志と連絡をとりつつ機会をうかがう
大石内蔵助は、敵の目を欺くため、伏見撞木町や、祇園一力亭などで遊興にふけったといわれる
同年10月、大石内蔵助も江戸に下る
同年12月14日夜
大石内蔵助良雄以下、47名が吉良邸へ集まり
表門には、大石内蔵助を頭として片岡源五右衛門ら24名、
裏門からは、長男 大石主税を頭とし堀部安兵衛ら23名が、 両門より襲撃し討入る
6時頃、炭小屋に隠れていた吉良上野介を探し当て討ち、主君の仇討ちを果たす
四十七士は、泉岳寺の浅野長矩の墓前で、その首を奉納し、仇討ちの報告をする
四十七士は、細川・松平(久松)・毛利・水野の四家へお預けとなり、処置について幕府内で意見の対立が起こった
将軍 徳川綱吉は、毘沙門堂門跡 公辧法親王に意見を求めたところ
「亡君の意思を継いで仇を討ったことは比類なき忠義ではあるが、助命して後に堕落する者が出たら、
今回の義挙にまで傷がつくことになる。
しかし、今、死を与えれば後世にまで語り継がれることになるだろう。時には死を与えることも情けとなる。」と言われ
徳川綱吉は切腹を命じる決意をしたといわれる
翌1703年(皇紀2363)元禄16年2月4日
四十七士が、預かり先の細川・松平・毛利・水野四候家にて切腹
主君 浅野内匠頭長矩と同じ泉岳寺に葬られる
後、明治天皇は「百世の不感奮興起せしむ」と言われた