大酒神社(おおさけじんじゃ)は、太秦蜂岡町、広隆寺の東にある神社
日本に渡来した、秦の始皇帝の子孫といわれる弓月国の功満王が、秦の始皇帝の祖神を勧請して創建されたといわれる
広隆寺の境内に鎮守社として祀られていたこともある
延喜式神名帳に記載されている葛野郡の式内社小社 大酒神社とされる
10月に行われる太秦牛祭(うずまさうしまつり)は、京都三大奇祭の一つとされる
本殿の主祭神3柱
・秦の始皇帝
・日本に渡来してきた弓月国の弓月王(ゆづきのきみ)
・弓月王の孫で、各地の秦部・秦人を統率者した秦酒公(はたのさけのきみ)
相殿神に2柱
・呉織神(くれはとりのかみ)(兄媛命(えひめのみこと)(呉織女(くれはとりめ)
・漢織神(あやはどりのかみ)(弟媛命(おとひめのみこと)(漢織女(あやはとりめ)
呉織神・漢織神は、渡来した4人の織女のうちの2人といわれる
本殿合祀:
・木枯明神(かつて境内社 木枯神社に祀られていた)
<石鳥居>
「大酒神社」の石の扁額がかかる
<石標>
「蠶養機織管絃楽舞之祖神 太秦明神 呉織神 漢織神」と刻まれている
1842年(皇紀2502)天保13年の建立
<手水舎>
<本殿>
一間社流造
<末社 三神の社>
祭神:瓊々杵命
<末社 八幡社>
祭神:応神天皇
<末社 稲積社>
祭神:宇迦御魂神
<旧末社 木枯神社>
かつて、広隆寺境内に祀られていたのを大酒神社境内に遷され、境内の北西隅に祀られていた
現在は、台風により社殿が損壊し、大酒神社の本殿に合祀されている
祭神:大国主命
「日本三代実録」862年(皇紀1522)貞観4年条に記されている「木枯神」に比定される
「広隆寺来由記」によると
貞観年間(859年~877年)頃
向日明神の作により造立された薬師如来像を、広隆寺に旧本尊として迎えたとき、
向日明神が、広隆寺門前、西南の大樹に影向され、その木を枯らしてしまった
そのため、向日明神の神霊を遷して祀ったところ、その木は再び繁茂したといわれ、
「古木の明神」「木枯明神」と称されたという
862年(皇紀1522)貞観4年
木枯神は、無位より従五位下に叙せられている
<紙本着色 秦氏三代像(はたうじさんだいぞう)3枚(模本)>
大酒神社に祭られている木製の彫刻 神像を模写したもの
渡来した弓月王、秦氏の祖神 秦酒公、広隆寺を建立した秦河勝の3人の像
幕末維新 1857年(皇紀2517)安政4年
蜷川式胤(にながわのりたね)による模写
<太秦牛祭(うずまさうしまつり)>
10月12日夜(旧暦9月12日丑の刻)
京都三大奇祭の一つ
異形の面をつけた麻多羅神が牛に乗り、赤鬼・青鬼の四天王に守護されながら、行列を従えて松明の火の下、
広隆寺の境内を練り歩き、薬師堂前で祭文を読み上げ、四天王とともに堂内に逃げ込んでいく
長和年間(1012年~1017年)
恵心僧都 源信が、国家安泰・五穀豊穣・悪魔退散を願い、
念仏守護神として麻多羅神(まだらのかみ)を勧請したときに始まる
広隆寺の僧侶によって斎行された
1983年(皇紀2643)昭和58年6月1日
京都市登録文化財(無形民俗文化財)に登録される
<日猶同祖論(にちゆどうそろん)>
日本人の祖先が2700年前にアッシリア人に追放されたイスラエルの失われた十支族の一つといわれる説
日本に渡来してきた弓月国の功満王(こうまんおう)は、秦氏の祖とされ、秦の始皇帝の子孫といわれる
弓月国(ゆづきのくに)は、シルクロードを経由してユダヤの末裔が建国した「原始キリスト教の国」とされる
ローマ帝国は「大秦(たいしん)」と記され、秦氏の本拠地も太秦と名付けられている
太秦に建立された大酒神社の祭神は、秦の始皇帝の祖神「大辟(大闢)(おおさけ)」とされ、
「大闢」は中国では「ダビデ」を意味し、ユダヤの王を祀っているともいわれる