下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)は、京都御所の南東に建つ神社
創建時には、御霊神社(上御霊神社)の南にあったことから「下御霊神社」と称されるようになった
「八所御霊(はっしょごりょう)」と称せられる政争に巻き込まれて恨みを持って死んだ8つの怨霊が祀られ、
上御霊神社とともに、皇室の産土神さんとしても崇められてきた
<八所御霊(はっしょごりょう)>
京都には多くの怨霊が存在し、その中で特に強い8つの怨霊が祀られている
863年(皇紀1523)貞観5年
清和天皇が、神泉苑の御霊会の祭神6座を、京極の東の下出雲寺に祀ったのが由来
<崇道天皇(すどうてんのう)>
桓武天皇の皇太子 早良親王
長岡京遷都の際に起こった藤原種継暗殺事件に関わったとして乙訓寺に幽閉され死去した親王
後に、崇道天皇(すどうてんのう)と追号される
<伊予親王(いよしんのう)>
桓武天皇の皇子、平城天皇の弟
平城天皇即位のときに、謀反の疑いを受け母親とともに幽閉され(承和の変)、無実を訴え自殺される
<藤原大夫人(ふじわらのだいふじん)>
伊予親王の母親 藤原吉子(ふじわらのよしこ)
<藤大夫(とうだいぶ)>
藤原廣嗣(ふじわらのひろつぐ)
九州に左遷後に反乱を起こして殺される
<橘大夫(きつだいぶ)>
橘逸勢
皇太子 恒貞親王を擁して謀反をはかり、伊豆に流される(承和の変)
才学に優れて「橘秀才」と称せられ、書道の名家でもあった
<文大夫(ぶんだいぶ)>
文屋宮田麻呂(ぶんやのみやたまろ)
橘逸勢と同じく謀反の罪に問われ伊豆に流される
以下の二座神を勧請し、上記6御霊と合わせて八所御霊とされる
<吉備聖霊(きびのしょうりょう)>
吉備真備(きびのまきび)
称徳天皇のあと天武系皇族から天皇をたてようとして左遷される
下御霊神社では、吉備真備ではなく「6御霊の和魂」とされる
<火雷天神(からいのてんじん)>
菅原道真
下御霊神社では、菅原道真ではなく「6御霊の荒魂」とされる
<本殿>
1790年(皇紀2450)寛政2年
光格天皇により仮皇居の内侍所(賢所)(1788年(皇紀2448)天明8年創建)が下賜され移建されたもの
<鳥居>
朱色の木製の鳥居
<表門>
仮御所の建礼門を移したもの
<手水舎>
京の三名水の一つの染井の水(梨木神社)と同じ水脈の清水
<猿田彦社>
祭神:猿田彦大神
配祀:垂加社(すいかしゃ)
祭神に垂加神道を唱えた江戸時代の国学者 山崎闇斎(やまざきあんさい)が祀られている
合祀:柿本大神(かきのもとおおかみ)(柿本人麻呂)
<稲荷神社>
祭神:稲荷大神(いなりおおかみ)
<宗像社>
祭神:市杵嶋姫命・田心姫命(たごりひめのみこと)・湍津姫命(たぎつひめのみこと)
<春日社>
祭神:天児屋命
<神明社>
祭神:天照大御神・豊受大御神
文政年間(1818年〜1830年)に建立
<八幡社>
祭神:応神天皇・比売大神・神功皇后
<四社>
日吉社:山王七社の神
愛宕社:愛宕大神(あたごおおかみ)
大将軍社:大将軍大神(たしょうぐんおおかみ)
相殿に、高知穂社:瓊瓊杵尊
斎部社:天太玉命(あめのふとたまのみこと)
<大国主社>
祭神:大国主命
相殿に、事代主社:事代主神
<下御霊天満宮>
祭神:菅原道真
<御霊会>
日時:5月18日
怨霊を鎮め悪疫退散を祈願するお祭
神輿4基と剣鉾八振りが、氏子区内を巡幸する
平安時代初期
863年(皇紀1523)貞観5年5月20日
清和天皇により、流行していた疫病の退散のため神泉苑の御霊会が行われ、祭神6座が下出雲寺に祀られた
その後、毎年8月18日に行なわれ、祇園御霊会(八坂神社)、紫野御霊会(今宮神社)などとともに盛大に行われた
鎌倉時代
上皇なども桟敷殿にて御覧になられたと記録に残る
明治維新まで
神幸祭が7月18日に行われ、8月に還幸祭が行われる
寺町御門より御所に参入し、仙洞御所、大宮御所門前に神輿が奉安される
白銀御奉納神主奉幣の儀が行われ、堺町御門から出て氏子各町を巡行した
現在の神輿や祭具は、東山天皇や仙洞女院など各御所より多くの寄進を受けた
猿田彦神輿は、後桜町天皇の寄進
指鉾は、後花園天皇、後土御門天皇、東山天皇、中御門天皇などの寄進
1876年(皇紀2536)明治9年
神幸祭を5月1日に、還幸祭を5月18日に行うことになる
8月18日は、例祭として社頭の儀が行われるようになる
8月17日夜には、賢所大前において、御神楽人長の舞が奉奏される
<歳旦祭> 1月元日
<節分祭> 2月節分
<神幸祭(お出祭)> 5月1日
<還幸祭(下御霊祭)> 5月18日
神幸列神輿の巡幸が行われる
<鎮疫祭> 5月20日
<夏越祓> 6月30日
<例祭前夕神事(御神楽)> 8月17日
<例祭> 8月18日
御神楽、東遊の奉納が行われる
<神嘗祭> 10月17日
<火焚祭> 11月18日
<大祓> 12月31日
<山崎闇斎祠堂碑(やまざきあんさいしどうひ)>
山崎闇斎(やまざきあんさい)の邸宅跡として石碑が立てられている
山崎闇斎は、江戸時代に垂加神道を唱えた国学者
京都で仏門に入り、儒学者 野中兼山(のなかけんざん)に見出され土佐国へ移り、
儒学者 谷時中(たにじちゅう)に師事して儒学を学んだ
寛永19(1642)年、京都に移住する
明暦元(1655)年、自宅で講席を開く
晩年には、儒学と神道を合一した垂加神道(すいかしんとう)を唱える
お墓は金戒光明寺にあり、邸宅跡付近の下御霊神社には、山崎闇斎を祀った垂加社がある
下御霊社の神官 出雲路信直が、山崎闇斎の門下に学び、山崎闇斎の遺品が多数残されている