大将軍神社(たいしょうぐんじんじゃ)は、北区の西賀茂角社町にある神社
賀茂川を挟んで上賀茂神社の対岸の住宅街の森の中にある
桓武天皇が平安京を造営したとき、王城鎮護のため、京の四方に祀られた大将軍神社の一つ
北方の守護神とされ、他の大将軍神社と区別するために西賀茂大将軍神社とも称される
西賀茂地域(今原・鎮守庵・総門・田尻)の産土神(氏神)さんとして崇敬されている
磐長姫命(いわながひめのみこと)とその家族神4柱が祀られている
<磐長姫命(いわながひめのみこと)>
木花咲耶姫命の姉神
天孫 邇邇芸命が天下りしてきて、絶世の美女といわれた木花咲耶姫命に一目ぼれする
木花咲耶姫命の父親の大山津見神は、大喜びをして、多くさんの献上物と一緒に、姉の磐長姫命をも嫁がせる
しかし、邇邇芸命は、岩のような容姿の磐長姫命を追い帰してしまう
磐長姫命とも結婚していれば、邇邇芸命や子孫の寿命は、岩のように永遠に長く続くものとなるはずだったが、
木に咲く花のように短く散る運命になってしまったといわれる
不老長寿・延命長寿のご利益があるといわれる
<家族神4柱>
詳細は不詳
<大将軍>
大将軍とは、古代中国の陰陽道のよる方位の吉凶を司る八神の一つ
後に、日本の神さんである素戔嗚尊と同一視されるようになったといわれる
大将軍は、3年ごとに移動するといわれ、12年で一巡して四方を正すとされた
「三年塞がり」と称され、その間、その方角で事を行うと凶になるといわれ諸事が忌まれた
方位を留守にする遊行日が定められており、その間は災難が回避される
桓武天皇が平安京を造営したとき、平安京の四方に大将軍神社を祀られた
東方:東三条 :大将軍神社
西方:一条通御前:大将軍八神社
南方:藤森神社境内:大将軍社
北方:西賀茂 :大将軍神社
北方には、もう一つ今宮神社境内の大将軍社もある
祇園社境内にもあったともいわれる
<当西賀茂大将軍神社の角社(すみのやしろ)>
方違(かたたがえ)の神さんが祀られている
西賀茂は、都の西北隅にあったため、隅(すみ)と称されるようになったといわれる
須美社(すみのやしろ)とも記されている
<鳥居>
<本殿(京都市指定有形文化財)>
覆屋内にあり、一間社流造
1628年(皇紀2288)寛永5年から1636年(皇紀2296)寛永13年の間
上賀茂神社の摂社 片岡社の本殿(1590年(皇紀2250)天正18年建立)が、釣燈籠(金燈籠)、太刀袋、戸帳とともに移築されたもの
現存する賀茂社最古の建物とされる
1984年(皇紀2644)昭和59年に京都市指定有形文化財に指定される
本殿の前には、大きな立砂が造られている
<拝殿>
麦藁葺、金属板で覆われている
割拝殿となっており、南側中央部は土間、北側は西へ直角に折れており、西側へ出るようになっている
南北へは通り抜けできない
東側(本殿向かって右側)末社群4社
<角社(すみのやしろ)>
素戔嗚尊:疾病の神さん
一番右の大きい社
<稲荷神社> 宇気母智神(うけもちのかみ):商売繁盛の神さん
<貴船神社> 高龗神:水の神さん
<片岡神社> 事代主神:お祓いの神さん
西側(本殿向かって左側)末社群5社
<愛宕神社> 火之迦具土神:火の神さん
<松尾神社> 大山咋神:醸造の神さん
<八幡神社> 応神天皇:厄除けの神さん
<春日神社> 天兒屋根命(あめのこやねのみこと):藤原氏の氏神
<山王神社> 大山咋命:山の神
<神木>
樹齢数百年の大木が倒れ、その根元に落ちた種が自然に成長した実生の木といわれる
<石灯籠>
本殿手前に立つ
寛永年間(1624年〜1644年)の建立
<鉄燈籠(京都市指定有形文化財)>
片岡神社の刻銘がある
1984年(皇紀2644)昭和59年に京都市指定有形文化財に指定されている
<瓦窯にあった石>
拝殿横に置かれている
かつてあった瓦窯から発見された石
<大将軍神社文化財環境保全地区>
1985年(皇紀2645)昭和60年
京都市により、社殿、鎮守の森を含め当社境内全域が指定されている
<歳旦祭> 1月1日
<春祭> 4月29日
<大祓式(茅の輪くぐり)> 6月30日
<虫送り> 土用の丑の日
<八朔祭> 9月1日
<例祭>
10月の23日より前の日曜日
前夜に、宵祭の神事として餅搗(もちつき)が行われる
神幸行列
乙女(主に小学校高学年の女子7名が、神饌物を御舟に入れて頭の上に乗せて運ぶ)
総代(氏子各町会長)
宮詣(乙女・神饌物の警護をする男性)
稚児(主に就学前の児童)
神輿若中(主に小学生)
などの行列が、古来の衣装に身を包んで氏子町内を練り歩く
<御火焚> 11月23日
<大払祓式> 12月31日
<瓦屋の窯跡(瓦窯(がよう)>
平安時代前期
朝廷の延喜式 木工寮(もくりょう)に属した西賀茂瓦屋があり、官衛(かんが)御用の瓦を焼いていた
当 大将軍神社は、瓦屋守の鎮守社であったといわれる
近年の発掘調査によると、東に3基、西に4基、その西方に3基の窯跡が見つかっている
角社町窯は、内部に火道のあるロストル式平窯といわれる
長さ1.5m、幅2.2mあり、平瓦800枚から1000枚を焼くことができたといわれる
出土した遺瓦は、大内裏跡で発見されたものと同じで、東寺、西寺の瓦も造られたといわれる
遺瓦は、神光院に所蔵されいる
<瓦屋寺>
西賀茂には瓦屋が存在したため、地名も「瓦屋」と称され、
地域にあった神光院や正受寺は、「瓦屋寺」と称された
<正受寺(しゅうじゅじ)>
西賀茂にあった瓦屋寺の一つ
北側にあった西賀茂大将軍神社を、鎮守社とされていた
1290年(皇紀1950)正応3年頃、1300年(皇紀1960)正安2年頃
二位禅尼により、尼寺として瓦屋に菩提心院(発菩提心院)を創建したのが由来といわれる
円典が創建したともいわれる
「瓦屋の尼寺」とも称される
寛文年間(1661年〜1673年)、正伝寺の境内に移転する
1887年(皇紀2547)明治20年、火災により焼失した