<神々によって造られた丹波国(亀岡)>
かつて、亀岡盆地は、「丹の湖」と称される丹色(朱色)の赤土の泥湖であったといわれる
丹波の国は、日本の国造りを行っていた大己貴命(大国主命の別名)が、湖を一望できる山頂に立たれ、
この地方を治めていた八柱の神々を集めて、
「この山々を切り開き、湖水を山背(現在の京都市)へ流して、豊かな新しい国を造ろう」と相談されてできた国です
その丹波湖開拓伝説を伝える多くの神社が現存している(丹波湖開拓伝承の神社)
<国譲りによる元出雲>
大国主命が国造りをされた葦原中国(日本)は、天照大御神に国譲りが行われ、
丹波国 一の宮の出雲大神宮に祀られていた大国主命が、島根の出雲大社へ勧請されたとされる
亀岡に残った出雲大神宮は「元出雲」と称され、縁結びなどの大きなパワースポットとされている
<神道系の大本の聖地>
出口なおと出口王仁三郎を二大教祖として、日本全国に多くの信徒がいる神道系の大本
世界平和や、世の建て直しを訴え、
戦時中には、政府により、2度にわたり弾圧を受けるほど大きな影響力があったといわれている
戦後には無罪とされ、現在は、明智光秀が築いた亀山城跡を聖地として宣教活動が行われている
亀山城の天守閣があったところは、現在は神界を結ぶ神域としてされ、大きなパワースポットとされている
<源頼政の反逆による平家打倒>
平安時代末期
近衛天皇や二条天皇を夜な夜な悩ませた鵺を退治した弓矢の名手の武将 源頼政
恩賞として御剣「獅子王(ししおう)」と丹波の領地「矢代荘(現在の亀岡市矢田町)」を賜った
平清盛から信頼され、平清盛とともに内裏の援護にあたるなど、源氏の長老として平氏政権の下で活躍をし、
平清盛の計らいで、武士としては破格の従三位に叙せられて公卿となった
しかし、後白河天皇の皇子 以仁王と組んで、全国の源氏に平家打倒の令旨を伝えて挙兵
宇治川の戦いで平家の大軍に敗れ、平等院で自害することになる
が、その後、源氏一族により平家は滅ぼされ、源氏による武家社会となる鎌倉時代に歴史が変わっていく
源頼政の首が、亀岡市西つつじが丘の頼政塚に首塚として祀られている
平清盛から大いに信頼されていた源頼政が、なぜ、以仁王と組んで反逆したのかは謎とされている
<逆賊となった足利尊氏の2度の反逆>
鎌倉時代末期
現座の亀岡市篠町は、かつて、足利尊氏の領地であり、篠村八幡宮には、旗揚げの地の史跡が残っている
足利尊氏は、鎌倉幕府の命を受けて西国の鎮圧のために上洛するが、
鎌倉幕府打倒の挙兵に失敗して流罪となり隠岐島から脱出してきた後醍醐天皇の誘いを受けて、
篠村八幡宮で鎌倉幕府打倒の兵を挙げる
鎌倉幕府は滅び、後醍醐天皇による建武の新政が行われ、
足利尊氏は、後醍醐天皇から、幕府滅亡の勲功第一とされ、従二位まで叙され、
後醍醐天皇の諱「尊治」から一字を賜って「高氏(たかうじ)」から「尊氏(たかうじ)」に改名する
しかし、足利尊氏は、後醍醐天皇に反逆し、再び、篠村八幡宮で京都奪還を図り、
光厳上皇の院宣を得て、西国の武士を傘下に集め、後醍醐天皇の軍を破り京を制圧する
これにより、南北朝時代が始まることになる
京都三大祭の時代祭において、明治時代から平安時代まで各時代ごとに時代行列が登場するが、
足利尊氏は、後醍醐天皇を吉野に追いやったことで逆賊とされ、室町時代だけ時代行列から排除された
<明智光秀の史上最大の反逆>
明智光秀は、織田信長から唯一、一国を与えられた戦国武将である
その丹波国の各地では、明智光秀は、知将として名君として親しまれる史跡が多く残され、
朝敵・仏敵となっていた織田信長の恐政を絶ち、戦国時代を終わらせ、平穏な時代に導いた英雄とされる
戦国時代末期
明智光秀は、織田信長から丹波平定を命じられ、現在の亀岡市の中心部に亀山城(現在の大本の聖地)を築城し拠点とする
本能寺の変の数日前
亀岡の北に位置する愛宕山に登って愛宕神社を参拝し、おみくじを引いて神意を伺ったといわれる
本能寺の変の前日
光秀は、秀吉の中国攻めの援軍のためという名目で兵1万3,000人を率いて、亀山城を出陣する
午後6時頃、篠村八幡宮で軍議を開き、幹部の武将に信長の討伐を告げ、作戦を練ったといわれる
光秀が本能寺の変を起こした真意や、その後の経過には謎が多くあるといわれる
光秀は、本能寺の変の後、朝廷に参内して、従三位・中将に叙任された上で、征夷大将軍の宣下を受けたともいわれ、
翌日には、大山崎の町に戦火から守る禁制を出し、秀吉と、あらかじめ示し合わせてあった山崎の戦いで負け、
秀吉・家康に安定的な世の平定を託したといわれる