牛若丸(源義経)と武蔵坊弁慶については、生存当時の文献には、ほとんど登場しておらず、
後世の多くの創作物語により、いろいろなストーリがある
牛若丸と武蔵坊弁慶の対決をうたった童話・童謡がある
<日本昔噺「牛若丸」>
著者:明治時代の伽噺作家 巖谷小波
五条大橋の上で、牛若丸と弁慶が闘うお話
<尋常小学唱歌「牛若丸」>
1911年(皇紀2571)明治44年5月
日本昔噺「牛若丸」にもとづく童謡
作詞者・作曲者ともに不詳
「京の五条の橋の上 大のおとこの弁慶は 長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて切りかかる
牛若丸は飛び退いて 持った扇を投げつけて 来い来い来いと欄干の 上へあがって手を叩く
前やうしろや右左 ここと思えば またあちら 燕のような早業に 鬼の弁慶あやまった」
五条大橋の西詰めに、牛若丸と弁慶が闘う像が置かれている
大きな男 武蔵坊弁慶は、太刀千本を奪い取ろうと夜ごとに街を駆けめぐり999本の太刀を手に入れた
最後の1本を奪い取るために五条の大橋で待ちかまえる
そこへ通りかかったのは法師姿の牛若丸(源義経)
五条の大橋の上での一騎打ちとなるが、弁慶は、欄干を飛び渡り、身のこなしが軽い牛若丸に翻弄され、
太刀も奪えず負けてしまう
翌日、弁慶は、清水寺に参拝し、そこで牛若丸を待ち伏せして、
清水の舞台において、再び勝負するが、またしても負けてしまい、牛若丸に仕える誓いをしたといわれる
室町時代に書かれた「義経記」によると
牛若丸と弁慶の出会いは、五条大橋ではく、五條天神宮の境内であると記されている
五條天神宮の境内に西洞院川が流れており、この西洞院川に架かっていた橋で出会ったともいわれる
また当時は、現在の松原橋・松原通のことを「五条大橋」「五条大路」と称されていた
江戸時代初期の頃
五条大路は、松並木が続く道だったことから「五条松原通」と称されるようになり、いつしか「五条」が省略されて
「松原通」と称されるようになったといわれる
なくなってしまった「五条」の名前を復興させようと、「五条橋通」と称されていた六条坊門小路を「五条通」と改めたといわれる
そのため、ほぼ等間隔の二条通・三条通・四条通から、五条通との間隔は少し広くなり、六条通側に寄っている
<牛若ひろば>
五条大橋西橋詰に公園がある
<橋弁慶山>
京都市中京区蛸薬師通烏丸西入橋弁慶町
後祭のくじ取らずで唯一のかき山
五条大橋の上で、牛若丸が、ぎぼしの上に飛び上がり、武蔵坊弁慶が、長刀を構えて戦っている様子を表す