天智天皇山科陵(てんぢてんのう やましなのみささぎ)は、奈良時代の第38代天皇の御陵
明治天皇 伏見桃山陵以降は、天智天皇山科陵の陵形状が参考にされ上円下方の形式で築造されている
この地の地名や、地下鉄の駅名は、天智天皇山科陵があることから「御陵(みささぎ)」と称される
<天智天皇山科陵(御廟野古墳)>
古墳時代終末期の古墳形式
明治天皇 伏見桃山陵以降は、天智天皇山科陵の陵形状が参考にされ上円下方形式で築造されている
「扶桑略記」によると
天智天皇は、山科の森へ狩猟に出かけられ消息不明になり、沓が発見された場所に墓が築かれたともいわれる
この地は「御廟野(ごびょうの)」と称され、
江戸時代初期の地誌「出来斎京土産(できさいきょうみやげ)」には、
「此の野への名を忘れなば犬の声只ひゃうひゃうとひろき御廟野」と記されている
天智天皇の弟 天武天皇の檜隈大内陵(奈良県明日香村)は、南北同一経線 東経135度49分上にある
<上円下方墳(じょうえんかほうふん)>
方墳の上に円墳を上下に積み上げた形式
方形が地を、円形が天を示すとする古代中国の「天円地方」の思想に基づくといわれる
天智天皇山科陵が上円下方墳とみなおされ、明治天皇 伏見桃山陵以降は、上円下方の形式で築造されている
山科陵の上円部分は、平面正八角形をしており、直径約40m、一辺長さ約45m、高さ1m、葺石(ふきいし)がある
かつては、八角円堂(はっかくえんどう)があったといわれる
下方部は二段築成になり、辺長約70m、高さ7m、表面は礫石で覆われている
南辺が高く、北辺が低くなっている
南辺中央テラスに、礼拝用とされる切石の沓石(くついし)2m×3mが置かれている
<八角墳>
古墳時代終末期の古墳形式
飛鳥時代になると、大王墓のみに用いられるようになる
天智天皇山科陵も、上円部分が正八角形になってる
<参道>
三条通の入口から参拝所まで約450m、緑に覆われた一本道が整備されている
1863年(皇紀2523)文久3年8月の修陵で整備された
<石造 日時計碑>
参道入口付近の左手にある
高さ170cm
「天恩無窮(てんおんむきゅう)」(天が穏やかであれば困ることない)と篆額されている
垂直型日時計で、針は左回りに指していく
目盛りは、左上が「6」で午前6時、真下が「12」で正午、右上が「18」で18時を示す
1938年(皇紀2598)昭和13年6月10日 時の記念日
京都時計商組合による建立
661年(皇紀1321)斉明天皇7年
中大兄王子(天智天皇)が、日本で最初の水時計を作ったといわれることにちなんで建立された