網野銚子山古墳(あみのちょうしやまこふん)は、京丹後市網野町にある前方後円墳
網野町の市街地と日本海を見下ろす丘の上に築かれた巨大古墳
神明山古墳・蛭子山古墳と合わせて「日本海三大古墳」とされる
古代丹後の隆盛を伝える代表的な古墳の一つとされる
崇神天皇の時代に、四道将軍の一人としてこの地に遣わされた丹波道主命の墓という説がある
<墳丘>
網野南小学校の北、県道53号線と県道665号線が分岐する交差点のすぐ東の標高22mの丘陵上に築造されている
前方部を北東に向けた前方後円墳
<大きさ>
全長198m
後円部径115m、高さ16m
前方部幅80m、高さ10m
後円部の墳頂部の平坦面の径36m
日本海側では最大
<築造>
全部を下から盛り土したものではなく、三段築造されたといわれる
墳丘の一段目の一部は、地山の砂丘が利用されている
墳丘の二段目のテラス面は、前方部側と後円部側が続いていない墳丘形態となっている
<埴輪>
墳頂部の平坦面と2つの各段平坦部上には、約2000本の埴輪が立てられていたとされる
丹後特有の無頸壺形円筒埴輪(むけいつぼがたえんとうはにわ)で、
普通の円筒埴輪の頂部が丸くなっていて、真ん中に直径10cmほどの円形の穴があいている
「丹後型円筒埴輪」とも称される
<葺石>
墳丘の斜面全体に200万個程度の石が積み上げられている
石材は、福田川河口付近の海岸から運ばれたものといわれる
後円部東側と西側では、葺石の構造が大きく異なっている
<内部>
未調査
<周溝>
墳丘の南東側には、幅17m〜最大幅25mの浅い溝がめぐっている
北西側は、丘の端になり、すぐ自然の崖面になっている
<陪塚>
前と後ろに2基の陪塚がある
後円部側に小銚子古墳(国の史跡)
前方部側に寛平法王陵古墳(国の史跡)
<日本海三大古墳>
1位:網野銚子山古墳:198m
2位:神明山古墳:190m
3位:久津川車塚古墳(城陽市平川車塚):180m
全国的には、36位の規模とされる
<丹後三大古墳>
蛭子山古墳、網野銚子山古墳、神明山古墳の順で築かれたとされる
「丹後王国」とも称される古代丹後の隆盛を現している
隣りの弥栄町には、黒部銚子山古墳(全長100m)の古墳もある
<浦島太郎の屋敷跡地>
古墳の東には、寛平法皇塚古墳があり、小さな神社が建てられている
それまでの間に、「浦島太郎の屋敷跡地」という石碑が立っている
龍宮城から戻った浦島太郎が、玉手箱をあけて老人になり驚き、シワを引き抜いて近くの木に投げつけたという大木が
立っている
その後、この木の近くに屋敷を建てて暮らしたといわれている