有栖川宮旧邸(ありすがわのみやきゅうてい)は、京都御苑の下立売御門の西にある旧有栖川宮邸の遺構
現在は、平安女学院の教育施設「有栖館(ありすかん)」となっている
有栖川宮家は、江戸時代初期に、第107代 後陽成天皇の第7皇子 好仁親王によって創設される
有栖川宮邸宅は、現在の京都御所の北東、猿ヶ辻付近にあったが、
後に、京都御所の建礼門前に移された
その後、 現在の地に移され、京都地方裁判所の一部として使用される
現在は、平安女学院の教育施設として用いられている
幕末から大正にかけての公家屋敷や高級官僚官舎の様子を伝える
<有栖館>
書院造
敷地面積は約2150m2、建物面積は約392m2、木造瓦葺、平屋建て
中庭を囲んで、玄関棟・客間棟・住居棟の3棟で構成されている
客間棟の西側部分には、床の間と付書院を備えた2畳の「上段の間」のある12畳半の座敷がある
その隣に、能舞台としても使用できる十五畳の板張りの間がある
<表門(青天門)>
烏丸通に面した表門
銅板と真鍮板で葺かれた平唐門
左右の塀と共に、大正時代の門建築の作例として貴重なもの
京都地方裁判所長 石田寿と親交のあった歌人 吉井勇が、李白の詩から字をとって「青天門」と命名したといわれる
1912年(皇紀2572)明治45年
三井家総長 三井高保が、邸宅の表門として新築したもの
1952年(皇紀2612)昭和27年
京都地方裁判所長官舎表門として、現在の地に移築される
<長屋門>
下立売通沿いに建つ
白い漆喰塗りで、長屋門形式としては最上級のもの
向かって右手に居住できる部屋、左手に納屋等に利用されていたといわれる部屋がある
<書院庭>
2009年(皇紀2669)平成21年
十一代目 小川治兵衛が、「平成の植治の庭」として作庭したもの
建物が高床の縁側で、横幅が広く奥行きが狭い平面庭であることにより、奥の土塀や外の建物が視界に入らないように工夫されている
庭全体の地面の高さを、客土して約30cmほど上げて、石や飛び石はそのまま配置しなおされ、植栽されていた木々の補植が行われた
<前庭>
馬や馬車が長屋門から入り、ロータリーの中央島を廻り、長屋門西横の馬小屋に入るようになっている
中央島は、客土を行い、埋まっていた縁石を上げて黒松が植栽され、玄関が見えないようになっている
青天門の南側の楓島、北側の桜島に、左右対称となるようにサツキとツツジが植栽されている
青天門の両側の桜と楓の丘には、小川治兵衛により「立ち話ではなんですさかい」と命名され、座れるように景石が置かれている
<枝垂桜(しだれざくら)>
烏丸通側の塀の近くにある2本の枝垂桜
一本の木のように広がった枝振りを見せる
1952年(皇紀2612)昭和27年3月
日本画家 堂本印象の発案により、醍醐寺三宝院内にあった実生の桜(みしょうのさくら)を移植したもの
豊臣秀吉が「醍醐の花見」を催した当時の桜の孫にあたるといわれる
<中庭>
平安女学院が源氏物語千年紀としてフジバカマ(藤袴)を十株を育てるために花壇庭が造られた
最後の武将 有栖川熾仁親王をイメージして、桃の節句に因んだ垂桃(シダレモモ)を中央に植樹されている
雲の上の人の花壇というところから、雲型壇とされたといわれる
<円福寺>
有栖川宮旧の御殿がある
<宗仙寺>
有栖川宮七代 韻仁親王のとき、有栖川宮の御祈願所となる