長州藩邸跡(ちょうしゅうはんていあと)は、江戸時代初期に長州藩毛利氏の藩邸が置かれた跡
現在の京都ホテルオークラの一角に「長州屋敷址」の石碑が建てられている
長州藩藩邸は、長州藩藩(現在の山口県)毛利氏(もうりし)の藩邸
高瀬川一之舟入(いちのふないり)南側から御池通までの、河原町通から木屋町通の一帯に建てられる
長州藩藩邸は、初め南北2か所に分かれ、
北側屋敷は、表口39間(約70m)、裏行31間(約56m)、
南側屋敷は、表口30間(約54m)、裏行8間(約14m)の広さがあった
高瀬川一之舟入に接し、京都の物産を買い込んだり、
長州藩の物産を京都で売るなど経済的な役割や、京都の有職故実や流行ものを調べる文化的な
役割を持っていた
幕末維新における
公武合体論、尊王攘夷派の一大政治的拠点となる
長州藩出身者だけでなく、脱藩してきた尊攘派の者が多く身を寄せていたといわれる
<長州屋敷址(ちょうしゅうやしきあと )>
1938年(皇紀2598)昭和13年
京都市教育会により、京都ホテルオークラの南の一角に石碑が立てられる
京都ホテルオークラの西の一角には、桂小五郎(木戸孝允(きどたかよし)の等身大の像も建立されてる