宴の松原(えんのまつばら)は、平安京の内裏の西側のエリア
出水通と六軒町通の交差点 南東側に石碑が立っている
七番町は、桃山時代の聚楽第の武家町跡
周辺には各宗派の寺院がいくつもあり「てらまち」とも称される地域にある
平安京大内裏の中央の内裏の西、豊楽院の北にあった松林
内裏の西外郭門である宜秋門から松林に出れる
広さは南北約430m、東西約250m、内裏とほぼ同じ大きさ
宴の場として用いられたとする説や、
南北中心線を挟んで内裏と対称位置にあることから内裏の建替用地といわれる
飛鳥時代の恭仁宮・平城宮・長岡京には大極殿北に2つの内裏が並んでいた
天皇の譲位後の上皇が、今生天皇の後見人として住まう宮の予定地だったともいわれる
「日本三代実録」「今昔物語集」などによると
887年(皇紀1547)仁和3年3月
松の樹下で女性が鬼に殺されたといわれる
「大鏡」によると
花山天皇の発案により、藤原道隆と弟 藤原道兼・藤原道長が肝試を行い、
右衛門陣から豊楽院へ行く途中に、松原から声を聞いて逃げ帰ったといわれる
「栄花物語」にある歌
「あはれにも 今は限りと思ひしを まためくりあふ えんの松はら」