伏見奉行所(ふしみぶぎょうしょ)(Fushimi Bugyousyo) 京都通メンバ
石碑所在地:京都市伏見区西奉行町   名所地図情報名所

 伏見奉行所(ふしみぶぎょうしょ)は、江戸幕府の遠国奉行の一つ

 御所の警護、西国大名の監視、伏見港の監視、伏見の民政を担っていた

 鳥羽・伏見の戦いのときに、新選組が伏見奉行所を陣取ったため、薩摩藩長州藩との激戦となり焼失した

 現在、近鉄電車桃山御陵前の南付近の跡地は京都市営桃陵団地となっており、石碑が立っている

【伏見奉行所の歴史・経緯】



【伏見奉行所】

 <伏見奉行>
 伏見町と御城山(旧伏見城)、周辺の8ヶ村(堀内村・大亀谷村・深草村・毛利治部村・景勝村・六地蔵村・三栖村・向島村)を管轄した

 江戸時代初期には、畿内近国8ヶ国を総監する上方郡代が伏見奉行を兼ねた

 御所の警護、西国大名の監視、京の水運の拠点となる伏見港の監視などを担い、藩主を歴任したなど大名格が任命された

 配下には、与力10騎、同心50人がおかれる


 <伏見奉行所>
 伏見奉行 小堀政一(小堀遠州)(松山藩2代藩主・近江小室藩初代藩主)が
 堀内村清水谷(山口駿河守屋敷)にあった伏見奉行を、
豊後橋(現在の観月橋)の北の富田信濃守邸跡(現在の西奉行町 伏見奉行所跡)に移転
 六地蔵西町にあった小堀遠江守屋敷も、同地に移転し、小堀遠州が伏見奉行所の館舎・庭園を造営する

 徳川家康が上洛したときに、風雅な伏見奉行所屋敷に入り、小堀遠州に茶を所望し、庭園を賞賛したといわれる


 北門は、西奉行所町 油掛通、南門は、平戸橋北の弾正町の入口に建てられた
 敷地中間ほど西側には立石門があった

 敷地北部に奉行屋敷、敷地南部に与力・同心などの屋敷が建てられた

 立石門の北に御囲米倉、立石通突当りは、庭園入口付近で、南矢倉が置かれていた

 敷地中間ほど東側に火見櫓があった

【伏見奉行所跡】

 伏見奉行所の跡を示す石標が、近鉄電車桃山御陵前の南、御香宮神社の南、京都市営桃陵団地の入口に立つ

 石碑と駒札の周りには、雰囲気を合わせた築地塀が建てられている

 石碑は、伏見奉行所敷地の北部にあり、奉行屋敷があったあたり


 <伏見奉行所跡石碑>
 所在地:伏見区西奉行町(桃陵団地内)
 建立年:1968年(皇紀2628)昭和43年11月
 建立者:京都市
 大きさ:高さ105 × 幅18 × 奥行18cm
 碑文:
  南西面:伏見奉行所跡
  北西面:昭和四十三年十一月 京都市


 <伏見工兵第十六大隊跡
 京都市営桃陵団地の入口の伏見奉行所跡の石碑の向かい側に石碑が置かれている


 <常盤御前就捕処
 伏見奉行所跡の石碑から南の、公務員伏見合同宿舎の前に築地塀が造られ石碑が立っている


 <旧伏見奉行所の石垣
 常盤御前就捕処の石碑から南の、桃陵団地の南西の築地塀に残されている


 <維新戦跡
 伏見奉行所を占拠した幕府軍が、新政府軍からの攻撃を受けた鳥羽・伏見の戦いの戦跡を示す石碑が立つ

【歴代伏見奉行】

 伏見奉行所創建当初の所轄
  松平忠吉 1600年(皇紀2260)慶長5年 ~ 1602年(皇紀2262)慶長7年

 伏見城城代と奉行2人がおかれた
  柴山小兵衛定好・長田喜兵衛義正 1602年(皇紀2262)慶長7年 ~ 1615年(皇紀2275)元和元年
  門奈左衛門宗勝・山田清太夫重次 1615年(皇紀2275)元和元年 ~ 1619年(皇紀2279)元和5年8月

 伏見城が廃城となり奉行1人となる
  山口駿河守直友 1619年(皇紀2279)元和5年8月 ~ 1622年(皇紀2282)元和8年9月27日死去
  小堀遠江守政一 1623年(皇紀2283)元和9年12月 ~ 1647年(皇紀2307)正保4年2月6日死去
  水野石見守忠貞 1647年(皇紀2307)正保4年3月 ~ 1666年(皇紀2326)寛文6年3月


 上方郡代の職務が分割され、改めて、伏見奉行が創設される
  水野石見守忠貞  1666年(皇紀2326)寛文6年3月 ~ 1669年(皇紀2329)寛文9年4月
  千石因幡守久邦  1669年(皇紀2329)寛文9年7月 ~ 1681年(皇紀2341)天和元年10月21日死去
  戸田長門守忠利  1682年(皇紀2342)天和2年1月 ~ 1686年(皇紀2346)貞享3年11月
  岡田豊前守善次  1686年(皇紀2346)貞享3年11月 ~ 1694年(皇紀2354)元禄7年2月13日死去
  青山信濃守幸豊  1694年(皇紀2354)元禄7年3月 ~ 1696年(皇紀2356)元禄9年1月

 一時廃止され京都町奉行が分任する

  建部内匠頭政宇  1698年(皇紀2358)元禄11年11月 ~ 1714年(皇紀2374)正徳4年7月
  石川備中守總乗  1714年(皇紀2374)正徳4年7月 ~ 1720年(皇紀2380)享保5年5月24日病死
  北條遠江守氏朝  1720年(皇紀2380)享保5年6月 ~ 1734年(皇紀2394)享保19年10月
  小堀和泉守政峯  1734年(皇紀2394)享保19年10月 ~ 1746年(皇紀2406)延享3年3月
  管沼織部正定用  1746年(皇紀2406)延享3年3月 ~ 1751年(皇紀2411)寛延4年10月
  堀長門守直寛   1751年(皇紀2411)宝暦元年10月 ~ 1758年(皇紀2418)宝暦8年11月
  久留島信濃守光通 1758年(皇紀2418)宝暦8年11月 ~ 1764年(皇紀2424)明和元年9月4日死去
  本多対馬守忠栄  1764年(皇紀2424)明和元年10月 ~ 1778年(皇紀2438)安永7年9月20死去
  小堀和泉守政方  1778年(皇紀2438)安永7年11月 ~ 1785年(皇紀2445)天明5年12月27日罷免
  久留島信濃守通祐 1785年(皇紀2445)天明5年1月 ~ 1791年(皇紀2451)寛政3年5月13日死去
  本荘甲斐守道利  1791年(皇紀2451)寛政3年5月 ~ 1795年(皇紀2455)寛政7年12月
  松平但馬守昌睦  1795年(皇紀2455)寛政7年12月 ~ 1800年(皇紀2460)寛政12年12月
  加納遠江守久周  1800年(皇紀2460)寛政12年12月 ~ 1807年(皇紀2467)文化4年12月

 一時廃止され京都町奉行が分任する

  本多大隅守政房  1810年(皇紀2470)文化7年10月 ~ 1814年(皇紀2474)文化11年10月30日死去
  丹羽長門守氏昭  1815年(皇紀2475)文化12年8月 ~ 1819年(皇紀2479)文政2年8月
  仙石大和守久功  1819年(皇紀2479)文政2年8月 ~ 1823年(皇紀2483)文政6年3月4日死去
  堀田加賀守正民  1823年(皇紀2483)文政6年3月 ~ 1827年(皇紀2487)文政10年9月
  本庄伊勢守道貫  1827年(皇紀2487)文政10年10月 ~ 1833年(皇紀2493)天保4年6月
  加納遠江守久儔  1833年(皇紀2493)天保4年6月 ~ 1838年(皇紀2498)天保9年9月
  内藤豊後守正縄  1838年(皇紀2498)天保9年9月 ~ 1859年(皇紀2519)安政6年8月
  林肥後守忠交   1859年(皇紀2519)安政6年8月 ~ 1867年(皇紀2527)慶応3年6月24日死去

【その他】

 <伏見義民>
 天明年間(1781年~1789年) 伏見義民一揆
 伏見奉行 小堀政方が、御用金で遊興していたり、奉行所が伏見港で着船や船客から料金を取り上げる悪政などにより、
 町年寄の文殊九助(刃物鍛治)、丸屋九兵衛(農業)、麹屋伝兵衛(麺製造業)、伏見屋清左衛門(塩屋)、柴屋伊兵衛(薪炭商)、
板屋市右衛門(製材業)、焼塩屋権兵衛(器製造業)の7人が、伏見の町が衰退するのを憂いて、
死を覚悟して江戸幕府 松平伯耆守に直訴する
 願書は却下になり、7人は直訴の罪で投獄される
 松平定信により、小堀政方は伏見奉行を罷免され、領地没収、お家断絶となる
 7人について、松平定信が赦免を申し渡したが、時遅く、みんな病死や牢獄死し「伏見義民」と称される

 御香宮神社には「伏見義民の碑」がある
 大黒寺に伏見義挙殉難士之墓地がある
 勝念寺には「天明義民 柴屋伊兵衛墓所」の石碑が立っている

【伏見奉行所跡へのアクセス】

 近鉄電車京都線 桃山御陵前 徒歩約5分
 京阪電車 伏見桃山駅 徒歩約5分
 JR奈良線 桃山駅 徒歩約10分


【京都検定 第16回3級】

【京都検定 第19回3級】

【京都検定 第3回2級】

【京都検定 第12回1級】

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