伏見城(ふしみじょう)は、伏見(現在の伏見区桃山町周辺)に豊臣秀吉・徳川家康が築いた城
伏見においては、豊臣秀吉の隠居屋敷・伏見指月城・木幡山伏見城・徳川木幡山伏見城と移り変わった
伏見城が取り壊された後、一帯に桃の木が植えられ「桃山」「伏見桃山」という地名が生まれた
現在、本丸跡付近には、明治天皇 伏見桃山陵がある
現在は、大天守閣・小天守閣などが、閉園となった遊園地により作られている
伏見の地は、東山三十六峰の最南端に位置し、南には巨椋池が広がり、水運により大坂と京都とを結ぶ交通の重要地とされていた
<隠居屋敷>
1593年(皇紀2253)文禄2年9月
指月山に完成
<伏見指月城>
豊臣秀吉が伏見で初めて築いた城
1596年(皇紀2256)慶長元年に完成
直後の慶長伏見地震によって倒壊する
<木幡山伏見城>
1597年(皇紀2257)慶長2年
指月山から北東の約1kmの木幡山に完成
伏見城の戦いで焼失
<徳川木幡山伏見城>
1602年(皇紀2262)慶長7年
徳川家康によって再建される
1619年(皇紀2279)元和5年に廃城とされる
平山城
本丸を中心に外側に郭を環状に囲んだ輪郭式・囲郭式
周囲は、最大幅約100mの堀・空堀・高石垣で囲まれていた
<本丸>
天守閣があり、本丸を取り囲む郭は、側室の居所、周囲の郭は側近の邸宅になっていた
中央の本丸北西に、東西約20m・南北約30mの天守台があり、天守が立っていた
<二ノ丸(西丸)>
本丸の南西に隣接して、巨大な堀切を隔てていた
淀殿が住んでいたといわれる
東端中央に土橋、南西隅に内枡形虎口があった
<三ノ丸>
西丸の南西から繋がっていた
西側には、連続した枡形虎口が設けられていた
<右衛門郭(増田郭)>
西丸につながっていた
西側には、大規模な堀があった
<治部少輔郭>
三ノ丸の西側につながっていた
<松ノ丸>
本丸の北東に隣接して横堀を隔て土橋でつながっていた
東西両端に2つの虎口があった
<出丸(馬出)>
松ノ丸の西側に土橋でつながっていた
<名古屋丸>
松ノ丸の南東側につながっていた
内部中央東寄りに、削り残しの土壇 太鼓櫓があった
南端には、現在、昭憲皇太后陵伏見桃山東陵がある
<山里丸>
名古屋丸の南東につながっていた
南の御茶屋山には、雛壇状の削平地があり、舟入に繋がり、宇治川大坂からの船が城郭部に直接乗り入れができた
<茶亭 舟入学問所>
<治部池(じぶいけ)>
伏見城天守跡の西側にある池
桓武天皇 柏原陵への参道の右側(東側)に見ることができる
城郭内にあった治部少輔 石田三成の屋敷の北側にあった堀の跡
人工的に掘られたものではなく、自然の池を利用したものといわれる
<紅雪池(こうせついけ)>
伏見城天守跡の東側にある池
伏見城花畑跡に、遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、
洛中洛外図に描かれた伏見城を参照し、模擬天守などが鉄筋コンクリート構造で造られる
<櫓門>
<大天守閣>
5重6階
<小天守閣>
3重4階
<石碑「伏見桃山城」>
櫓門の横に立てられている
<樹霊碑>
石垣の下に立てられている
「昭和の子規」(正岡子規)と称された引野收(ひきのおさむ)の歌碑
「永遠とおもえる ながき時のなか 樫立てり黄なる あやくもの果て」引野收
引野收は、伏見桃山城の北西 桃山町正宗坂で40年間にわたり絶対安静の寝たきり生活を送りながら
歌人である妻の濱田陽子とともにいのちや平和の尊さを歌い続けたといわれる
<京都一周トレイルコース>
伏見桃山城(東山F6)や、桓武天皇 柏原陵参道(東山F5)は、東山コース 伏見・深草ルートに含まれており標識が立てられている
<豊国神社 唐門(からもん)(国宝)>
伏見城の遺構といわれ、二条城から南禅寺金地院を経て、移築されたもの
大徳寺・西本願寺の唐門とともに国宝三唐門の一つ
<西本願寺 唐門(国宝)>
北小路通に面して建つ四脚門の勅使門
組物や扉などに彩色彫刻が施され、精緻な飾金物が打たれた華麗な門で、伏見城の遺構といわれる桃山様式の建築
建築細部の彫刻を眺めていると日の暮れるのも忘れるといわれ、通称「日暮門(ひぐらしもん)」と称される
豊国神社・大徳寺の唐門とともに国宝三唐門の一つ
<三宝院 唐門(国宝)>
表門の東にあり、桜の並木道に南面している勅使門
門全体が黒の漆塗りで、三間一戸の檜皮葺の平唐門
中央の2枚の門扉に、五七の桐の紋、その左右に複弁十二葉の菊花紋が彫られ、その大きな紋には金箔が施されていた
1598年(皇紀2258)慶長3年
豊臣秀吉の醍醐の花見のときに、伏見城から移築されたものといわれる
<御香宮神社 表門(重要文化財)>
三間一戸、切妻造、本瓦葺、薬医門(やくいもん)、正面は中国二十四考を彫った蟇股
1622年(皇紀2282)元和8年
徳川頼房(水戸黄門の父親)が、伏見城の大手門を譲り受け、寄進した遺構
<高台寺 表門(重要文化財)>
伏見城の遺構
<二尊院 総門>
豪商 角倉了以が伏見城の薬医門を移築した遺構といわれる
<観音寺 山門「百叩きの門」>
1623年(皇紀2283)元和9年
伏見城の牢獄門を移築したもの
門前で罪人を百回叩き、再び牢へ戻らないようにと諭して釈放していたといわれる
扉は、高さ約2.5mの楠(くすのき)の一枚板で、門の右端には小さな潜り戸があり、風が吹くたびに、その潜り戸が開き、
泣き叫ぶ人の声が聞こえたといわれる
<正覚寺 赤門>
1615年(皇紀2275)元和元年
京都所司代 板倉伊賀守と、南禅寺の以心崇伝の裁決により、知恩院の末寺とされた寺院
そのとき、伏見城の赤門が正覚寺へ移転され、「赤門さん」と称されるようになる
<その他>
瑞宝寺 旧山門(神戸市)
浄照寺(奈良県磯城郡田原本町) 表門 伏見城の高麗門が移築されたもの
本山寺(大阪府高槻市) 中の門
<金地院 方丈(重要文化財)>
1611年(皇紀2271)慶長16年
以心崇伝が、伏見城の一部を徳川家光から譲り受け、移築したもの
柿葺(こけらぶき)・入母屋造・書院造の代表建築
狩野探幽・狩野尚信の襖絵で飾られている
<浄土院 養林庵書院(重要文化財)>
1601年(皇紀2261)慶長6年
加傅和尚が、伏見城から移築したといわれる貴重な遺構
広縁中央には、寛永の三筆の一人 松花堂昭乗による「養林庵」の扁額がかかる
二の間と三の間の境の欄間、広縁の欄間はともに桃山時代の透彫
<正伝寺 本堂(重要文化財)>
1653年(皇紀2313)承応2年
伏見城の御成殿を移建したもの
狩野山楽の襖絵で飾られており、廊下の広縁には血天井がある
<高台寺 霊屋(おたまや)(重要文化財)>
開山堂から臥龍廊の長い廊下を経た東の山腹に建つ小堂
厨子の右に豊臣秀吉と、左側にねねの木像が安置され祀られている
ねねが、自身の像の下に葬られている
檜皮葺(ひわだぶき)の宝形造(ほうぎょうづくり)で桃山時代らしい豪華な装飾を持つ伏見城の遺構
柱は、朱塗りや黒塗りで彩色が施され、飾り金具がちりばめられている
<高台寺 茶室「時雨亭」(重要文化財)>
珍しい二階建て茶屋で千利休の意匠
伏見城の遺構
<高台寺 茶室「傘亭」(重要文化財)>
内部には天井がなく、丸竹の垂木(たるき)を放射状に組まれた化粧屋根裏(けしょうやねうら)が、唐傘に似ていることから
「傘亭」と称される
伏見城の遺構の茶室で千利休の意匠といわれる
南側の時雨亭とは、屋根付きの土間廊下でつながっている
<長楽寺 本堂(京都市指定文化財)>
1890年(皇紀2550)明治23年
現在の本堂が、伏見城の遺構といわれる正伝寺の法堂から移築された
桁行3間・梁行3間・四周裳階付・小規模禅宗様仏殿
<西本願寺 書院>
鴻の間の障壁画は、「逆遠近法の障壁画」といわれる
逆遠近法により、張良が四賢人を率いて恵帝に謁する図が描かれている
伏見城から移築されたもので、小柄だった豊臣秀吉が、この絵の前に座ると大きく見えるように描かれたといわれる
<南禅寺 小方丈>
伏見城殿舎の遺構といわれ、寛永年間(1624年〜1644年)頃の移築といわれる
<最勝院 本堂>
桃山時代の豪壮な唐破風からなる
玄関上部にある欄間は、藤の花の透板彫が施されており、伏見城から移されたものといわれる
<興聖寺 本堂>
朝日山を背景に建つ
伏見城の遺構といわれ、血天井がある
<養源院 本堂>
1621年(皇紀2281)元和7年
淀殿の妹の崇源院(徳川秀忠の正室)の願いにより、徳川秀忠が、伏見城の遺構を移築して本堂を再建する
以来、徳川家の位牌所、皇室の祈願所となる
本堂の左右と正面の3方の廊下の天井に血天井が残る
<圓徳院 永興院>
ねねが伏見城の化粧御殿を移築したもので、後に圓徳院の所管に移された
<照高院>
1619年(皇紀2279)元和5年
後陽成天皇の弟 興意法親王が、伏見城の建物を譲り受け、現在の北白川付近に再建する
<三宝院 茶室「枕流亭(ちんりゅうてい)」>
三宝院庭園の南東隅にある茶室
三畳の本席と、二畳台目と、二畳の小間がある
伏見城から移築した豊臣秀吉好み
<その他>
都久夫須麻神社(滋賀県長浜市竹生島)本殿(国宝) 伏見城の日暮御殿を移築されたもの
三渓園(横浜市中区) 諸侯控え室が移築された
沼名前神社(福山城)(福山市)(重要文化財) 移動式能舞台が移築された
渡辺山守綱寺(愛知県豊田市)本堂 軍議評定所が移築された
<伏見城復元石垣(京都市登録史跡)>
伏見桃山陵の参道にある伏見城の石垣跡
1596年(皇紀2256)慶長元年に築かれた帯曲輪(くるわ)の基礎部分にあたる全長約100mの石垣
石1個の重さは、1〜2.5t
石には墨で「二」「上」「大た尓(おおたに)」の文字が書かれていた
15m分が桃山東小学校に移築復元されている
<御香宮神社>
1977年(皇紀2637)昭和52年に出土した石約300個の一部が境内に保管されている
<西京極総合運動公園>
ゲートのモニュメントとして1977年(皇紀2637)昭和52年に出土した石約300個の一部が境内に保管されている
<その他石垣>
淀城
大阪城(大阪市)
<櫓(やぐら)>
福山城(広島県福山市)伏見櫓(重要文化財)
膳所城
岸和田城
尼崎城
<圓徳院北庭(国の名勝)>
1605年(皇紀2265)慶長10年の造営
伏見城 北政所 化粧御殿の前庭を移した桃山時代の代表的な名園
賢庭の作庭で、後に小堀遠州が手を加えたといわれる
多数の巨岩大岩が用いられている迫力のある珍しい庭で、桃山時代の豪華さ、豪胆さが現われている
<臥牛石(がぎゅうせき)(妙蓮寺)>
十六羅漢石庭(じゅうろくらかんせきてい)にある青石の名石
豊臣秀吉の寄進といわれる
<虎石(大雲寺)>
伏見城にあったもとといわれる
<三面大黒天像(西本願寺)>
正面が大黒天、右は弁財天、左は毘沙門天の三つの顔を持つ大黒天
左甚五郎の作といわる
もと伏見城にあったものが、夢のお告げにより西本願寺に遷されたといわれる
1600年(皇紀2260)慶長5年
前哨戦となった伏見城の攻防戦で、石田三成派の豊臣軍の大軍に攻められ伏見城中で自刃した徳川軍の鳥居元忠ら
約800人を供養するために、自刃した血痕が残る大広間の床板を天井にして祀られている
<養源院 >
本堂の左右と正面の3方の廊下の天井
<源光庵>
本堂の廊下の天井
<正伝寺>
本堂の廊下の広縁の天井
<興聖寺>
本堂の天井
<宝泉院>
書院の天井
<御香宮神社>
1590年(皇紀2250)天正18年
豊臣秀吉が、伏見城を築城するときに、願文と太刀(重要文化財)を献じてその成功を祈願し、
御香宮神社を大亀谷(おおかめだに)に移して、鬼門除けの守護神として勧請し、社領三百石が献じられる
<満足稲荷神社>
文禄年間(1592年〜1596年)
豊臣秀吉が伏見城の守護神として伏見稲荷大社の祭神を伏見城内に勧請したのが由来
<高台寺・圓徳院>
1605年(皇紀2265)慶長10年6月28日
ねねが、伏見城の化粧御殿と前庭(現在の圓徳院)を移築して、化粧御殿に移り住む
徳川家康は、政治的配慮からの多大な財政的援助を行い協力したといわれ、
<太閤堤>
1592年(皇紀2252)天正20年
豊臣秀吉は、伏見城の築城資材の運搬水路の水深を確保するために、宇治川と巨椋池を分離させるために、
巨椋池の島を結んで築いた堤防
<聚楽第>
1595年(皇紀2255)文禄4年
豊臣秀次が失脚し、高野山に移され切腹させられる
豊臣秀吉は、聚楽第を完全に取り壊し、建物の大部分は伏見城へ移築される
<金座跡碑>
徳川家康は、全国で最初に伏見城下に貨幣鋳造所を設立し、駿府や江戸など数箇所に設ける
<銀座跡碑>
徳川家康は、全国で最初に伏見城下に貨幣鋳造所を設立し、駿府や江戸など数箇所に設ける
<茶亭「舟入学問所」跡>
宇治川から伏見城に直接舟を横付けする船着場
桃山町丹後に南北約300m,東西90mの窪地として跡地が残っている
<井戸「金名水」・「銀名水」>
酒どころで有名な伏見はかつて「伏水」と称され、良質の地下水に恵まれているところ
豊臣秀吉は、伏見城内に「金名水」「銀名水」と称される井戸を掘り、茶会に用いていたといわれる