八文字屋自笑翁邸跡(はちもんじやじしょうおうていあと)は、江戸時代中期の浮世草子出版者の邸宅の跡
麩屋町通六角下ル西側の元生祥小学校の裏塀沿いに石碑が立っている
八文字屋自笑は、最初は浄瑠璃本を出版していたが、浮世草子を刊行し、
「八文字屋本」と総称される分野を開拓した
八文字屋自笑(はちもんじやじしょう)は、江戸時代中期の浮世草子の出版者
生年:不詳
没年:1745年(皇紀2405)延享2年11月11日
姓 :安藤
京都の書籍 八文字屋八左衛門の2代目か3代目といわれる
江戸時代初期
1688年(皇紀2348)元禄元年ころ
家業を継ぎ、説教本や絵入狂言本・浄瑠璃本などを出板
1696年(皇紀2356)元禄9年ころから
代作者の江島其磧(えじまきせき)と提携する
1701年(皇紀2361)元禄14年
江島其磧の作の浮世草子「傾城色三味線(けいせいいろじゃみせん)」「役者口三味線」を刊行し、
その後の役者評判記・浮世草子の原型を作り、
体裁・字体等にも工夫を施して「八文字屋本」と総称される分野を開拓する
1735年(皇紀2395)享保20年
江島其磧が死去
その後は、和学者 多田南嶺(ただなんれい)などを作者とし、八文字屋本として知られる浮世草子を板行した
浮世絵師 西川祐信(にしかわすけのぶ)の絵本類も板行する
八文字屋自笑以後は、八文字屋其笑−八文字屋瑞笑−八文字屋素玉と続く
八文字屋素玉の代のとき、
所有していた浮世草子板木を、大坂の升屋大蔵に売却される
本覚寺に墓地がある