平氏六波羅第・六波羅探題府址(へいしろくはらてい・ろくはらたんだいふあと)は、平氏一族の邸宅跡と鎌倉幕府六波羅探題の跡
六波羅蜜寺の境内を入ってすぐの右脇に石碑が立てられている
六波羅蜜寺の境内を入ってすぐの右脇に、「此附近 平氏六波羅第 六波羅探題府」の石碑が立てられている
<平氏六波羅第>
六波羅の地は、北は五条大路(現在の松原通)から、南は七条大路(七条通)、西は鴨川東岸から、東は東山山麓におよぶ広大な地域
小松谷(こまつだに)を経て山科に抜ける道筋にあり、東国や伊勢、伊賀への玄関口にあたり、交通の要衝でもあった
六波羅の中心となる、六条坊門小路の末(五条通)北側には、平氏の邸宅が建ち並んだ
最盛期には二十余町(約9万坪)におよんだ
平清盛の泉殿、平頼盛の池殿、惣門の脇に平教盛の門脇殿が建ち並んでいた
平清盛の長男 平重盛の邸宅 小松殿は、小松谷の入口(東山区馬町交差点あたり)から東にかけてあり、
平家一門の邸宅の中では後白河法皇の法住寺殿に一番近いところにあった
平家都落ちのとき、邸宅は一門の手で焼き払われしまう
<六波羅探題府>
六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府が京都に設けた出先機関・職名
源頼朝が、平氏政権の基盤であった白河南の六波羅の地を接収し、旧平清盛邸を改築して役所にして、京都での拠点を置いた
承久の乱の後、鎌倉幕府がそれまでの京都守護を改組して、六波羅探題北方と六波羅探題南方が設置される
このうち北方が平氏の六波羅第にあたる
朝廷の監視と、京周辺の治安維持・警護、西日本で起きた地頭と国司とのトラブルなどを処理する裁判機能や御成敗権を行使して、
「小鎌倉幕府」ともいわれる