東三条殿跡(ひがしさんじょうどのあと)は、二条城の東、押小路通釜座通の西北角に立つ石碑
平安時代に隆盛を究めた藤原氏の寝殿造の邸宅「東三条院」「東三条殿」「東三条院殿」「東三条第」があったところ
敷地は、平安京左京3条3坊1町、南北2町の広大なものだった
保元の乱の舞台にもなる
<東三条殿(東三条院)>
平安時代、藤原氏の寝殿造の邸宅
「東三条院」「東三条殿」「東三条院殿」「東三条第」「烏丸殿」とも称される
平安京の左京の三条にあり名付けられた
摂政 藤原良房が譲り受け邸宅とし、その後、藤原氏により伝領されていき、藤原兼家の時に最大になる
敷地は、平安京左京三条三坊一町、南北2町の広大なものだった
現在の二条通・御池通・新町通・西洞院通に囲まれた東西130m、南北280mの細長い敷地になる
一条天皇・三条天皇・後朱雀天皇・近衛天皇・後白河天皇の里内裏となる
東三条殿に住んでいた藤原詮子が出家して史上初めて女院号を与えられたとき「東三条院」と称された
保元の乱の舞台にもなる
<建物>
中央に寝殿がおかれ、その左右に東対・西対が連なる本院と、敷地の南側には別邸である南院があった
寝殿は、寝殿造の代表的なものとされる
規範性があり、左右対称の殿舎構成となっていた
寝殿と東対(ひがしのたい)は渡殿で結ばれていた
南側の渡殿は、吹き放ちの透渡殿(すきわたどの)だった
渡殿が、寝殿の北側に接続し、北方に北対(きたのたい)があった
東対から、中門廊が南に延びて、途中に中門があった
東四足門、西四足門があった
<庭園>
藤原道長のときには、庭内池に竜頭船が浮べられ、
天皇の行幸が行われ、公家の遊宴が盛んに行われたといわれる
<鎮守社>
西北隅に角振社(つのふりしゃ)、隼社(はやぶさしゃ)が祀られていた
東隅には、普賢堂が建てられていた
<閑院跡>
西側の現在の西福寺付近に、同じく藤原氏の広大な邸宅があった
里内裏にもなり閑院内裏とも称される
<堀河院跡>
閑院からさらに西側、堀川に面して同じく藤原氏の邸宅があった
<今昔物語>
摂政 藤原良房が譲り受ける前、東三条院には、式部卿の宮(醍醐天皇皇子 重明親王)の屋敷だった
式部卿の宮は、庭の築山のところで、たびたび、五位の装束をした背丈3尺(約90cm)ほどの太った者を見かける
怪しんだ式部卿の宮は、高名な陰陽師に依頼すると、人に危害は与えない銅の精霊だという
陰陽師が示した屋敷東南隅の土の中を掘らせると、五斗(約90L)ほどの銅の提が出てきた
それ以来、五位の装束の姿は見られなくなったという