氷室(ひむろ)は、宮中へ献上するための氷を氷池から採取して貯蔵しておくところ
平安時代に「栗崎野」「栗栖野」と称されていた朝廷の遊猟地である北区西賀茂にも氷室があった
京都市内と比べ、体感10度は低いといわれる
西賀茂氷室には、氷が作られていた氷室跡、氷池跡などが残されており、氷室・氷室池を守護する氷室神社が立てられている
<氷室(ひむろ)>
宮中へ献上するための氷を氷池から採取して貯蔵しておくところ
宮内省の下部組織 主水司(もんどのつかさ)により管理されていた
「延喜式」主水司の項によると、
氷室は、畿内5か国に21室、山城国には6カ所、氷池は畿内540ヶ所あり、シーズン78tほど扱ったといわれる
天皇さんには、4月1日から9月30日まで氷を供し、中宮・東宮・斎宮・妃・夫人・尚侍・雑給氷者・侍従にも氷を給された
延喜式による氷室の推定地
山城国
愛宕郡栗栖野(くるすの)(北区西賀茂西氷室町)
愛宕郡土坂(あふさか)(北区西賀茂西氷室町)
愛宕郡石前(いはさき)(北区衣笠氷室町)
愛宕郡賢木原(さかきばら)(西京区樫原)
愛宕郡小野(左京区上高野氷室山)
葛野郡徳岡(右京区御室住吉山)
丹波国
桑田郡池辺
桑田郡八木町氷所(ひどころ)
「日本書紀」によると、大和国都祁(奈良県天理市福住)の闘鶏稲置大山主いわく
「土を掘ること丈余(ひとつえあまり)
草(かや)を以って其の上に蓋き(ふき)敦く(あつく)茅萩(ちすすき)を敷きて、氷を取りて其の上に置く
既に夏月を経るに泮えず(さえず)其の用ふこと、即ち熱き月に当たりて、水酒に漬して用ふ」とある
冬場に、
氷室池に張った氷を、洞窟や、茅葺き小屋などを建てて地面に3mほど掘った穴で長期保存された
底には茅など木の枝葉を敷き、板を置いて、その上に氷を置き、さらに上から板をかぶせ、枝葉をのせる
さらに、萱などで厚く覆ったといわれる
夏場(4月1日から9月30日まで)
毎日、定量の氷が取り出され、峠を越え都まで運ばれ、禁裏御用品として朝廷などに献上された
<勧修寺 来栖氷室の池(くるすひむろのいけ)>
勧修寺氷池園(京都市指定名勝)は、書院前の氷室池を中心とした池泉舟遊式庭園
毎年1月2日に、 来栖氷室の池に張った氷を宮中に献上し、その氷の厚さでその年の五穀豊凶を占ったといわれる
<敷地神社>
平安時代に、氷の供御の不足に対処するため、氷室が設けられた
西賀茂氷室の地は、平安時代には、朝廷の遊猟地で「栗崎野」「栗栖野」と称されていた
京都市内と比べ、体感10度は低いといわれる
<栗栖野氷室(京都市登録史跡)>
氷室神社の北西100mほど上った丘陵地にある
平安京への遷都によって、6か所の氷室が作られたそのうちの一つで、現存する唯一のもの
「延喜式」主水司の項に記載された栗栖野氷室の地に推定されている
氷室跡には、周辺の山の斜面に大きな3つの窪地が残されている
いずれも直径6~8mの円形、深さ2~2.5mある
現在は、草で覆われて埋まってしまっている
氷を造った池は、氷室跡の周辺に5カ所現存している
現在も地域の灌漑用水池として利用されている
<氷室跡石碑>
建立年:1994年(皇紀2654)平成6年
建立者:京都市
大きさ:高さ105 x 幅22 x 奥行22cm
碑文:
南側:氷室跡 史跡「氷室神社境内及び氷室跡」のうち氷室跡
西側:平成六年四月一日 京都市登録
平成六年十二月建之 京都市
<氷室神社>
氷室・氷室池の守護神
宮中へ氷の献上を行っていた主水司 清原家が、勧請したといわれる
<氷室口>
北区鷹峯交差点から鷹峯街道を杉阪方面へ登っていき京見峠を越えたところに、栗栖野氷室への分岐がある
<氷の節句>
水無月旧暦6月1日「氷の朔日(ついたち)」
氷室から取り出した氷を口にすると、その夏を健康に過ごせる(夏痩せしない)といわる
<水無月>
6月30日の夏越祓でいただき、無病息災を願う京菓子
氷が非常に貴重だった時代に、旧暦6月1日に近い日に食べられた
白い外郎は氷を表し、上の小豆には魔よけの力があるとされる
三角形の形は、氷室神社の紋、氷室の氷を表すといわれる
<氷のおもの>
水飯(ご飯を白湯に浸したもの)に氷を入れたもの
<あてもの>
金椀のかき氷に、甘葛(あまづら)(ツタから抽出した甘味の樹液)を入れたもの
冷菓みなずき、酒冷やしなどにも氷を用いたといわれる