本因坊算砂(ほんいんぼう さんさ)は、寂光寺二世 日海上人(にっかいしょうにん)の号
寂光寺の塔頭 本因坊に住んでいた
碁を、堺の仙也老人(せんやろうじん)に学ぶ
碁の名手となり、碁所の開祖とされる
当時、敵手がいなく、織田信長から「名人」の名を贈られた
日海上人は、本能寺の変の前夜も、織田信長に呼ばれて碁を打っていたといわれる
豊臣秀吉にも碁を教える
徳川家康の命により、寂光寺を弟子に譲り、幕府の碁所を任され、「本因坊算砂」と改名する
以降、「本因坊」の名は碁界の家元とされ、技量に優れた者が世襲で受け継がれた
本因坊家は、4代 道策(どうさく)のとき江戸へ移った
<寂光寺>
豊臣秀吉の都市改造政策により、「本因坊発祥の地」に石碑がある寺町通竹屋町へ移転してきた後、
江戸時代中期、洛中に起きた大火災で罹災し、仁王門通東山西入の現在地に移った
本因坊5代までのお墓と本因坊碑がある
碁所の開祖の算砂の画像や、関白 近衛家から拝領した唐桑(からくわ)の碁盤、算砂直筆の囲碁狂歌などを所蔵している