本圀寺跡石碑(ほんこくじあとせきひ)は、万寿寺通堀川通西入に立つ石碑
昭和時代に山科に移転した日蓮宗一致派の大本山 本圀寺の跡地
石碑より南西に、本圀寺の旧塔頭が16院が残っている
<朝鮮通信使ゆかりの地>
江戸時代初期
朝鮮国から招いた朝鮮通信使は京都で滞在していた
1636年(皇紀2296)寛永13年以降
本国寺が、朝鮮通信使の定宿となり、7回、約400名が宿泊したといわれる
将軍の名代として代々の京都所司代が一行に挨拶に来て饗宴を催していた
1711年(皇紀2371)正徳元年
「朝鮮人来聘ら付、公儀ヨリ被仰出状御書付」によれば、松陽院・本實院・松林院・久成院・本栖院など
多くの坊舎塔頭が一行のために用いられたことが記されている
1767年(皇紀2427)明和4年
通信使の随員であった金仁謙の記録「日東壮遊歌」によれば、
当時の本圀寺には相輪をもつ五層の楼門があり、石や木竹を配した庭園があったといわれる
塔頭は、現在も六条堀川の旧地(現在の堀川五条の北西・南西付近の猪熊通・岩上通沿い)に16院が残っている
京へ帰洛する以前からの塔頭
<勧持院>
1345年(皇紀2005)興国6年/貞和元年 日靜上人により、本圀寺の境内に移される
<智光院>
1433年(皇紀2093)永享5年、日心上人により創建される
<松林院>
明応年間(1492年〜1501年) 本圀寺の境内に移され再興される
<智了院>
1504年(皇紀2164)永正元年、日受上人により創建される
<真如院>
1535年(皇紀2195)天文4年、日映上人により創建される
<林昌院>
1530年(皇紀2190)享禄3年、日實上人により創建される