堀河天皇里内裏跡(ほりかわてんのうさとだいりあと)は、堀河天皇が、成長・受禅・崩御された堀河院(堀川殿)の跡地
最初の関白 藤原基経が造営した大邸宅だったところ
「讃岐典侍日記」には、
堀河天皇の発病から崩御まで、近親の女房として生々しく描かれている
二条城の東の京都国際ホテル前に石碑が立つ
堀河院(堀川殿)は、平安京左京三条二坊九町から十町にかけてあった関白 藤原基経が造営した大邸宅
(現在の二条通と堀川通によって画された東西120m、南北250m程)
公式な行事のためにも用いられ、宴会などが催されたときなどには、公卿たちは牛車で参集したといわれる
関白 藤原兼通によって改修され、
円融天皇が初めての里内裏とされ、白河天皇・堀河天皇・鳥羽天皇の里内裏となった
平安京における名邸の一つとされ、
苑池の美しさは多くの詩歌にも詠まれている
藤原兼道の娘 詮子が円融天皇の中宮であったため、円融上皇の御所(里内裏)となる
堀河天皇は、堀河院を里内裏とされ、成長・受禅され、
1107年(皇紀1767)嘉承2年に、堀河院で崩御される
保安年間(1120年〜1124年)
焼失し、その後廃絶する
2007年(皇紀2667)平成19年10月
京都立音楽高校移設に伴い、旧城巽中学校の跡地で、京都市埋蔵文化財研究所により発掘調査が行われ、
堀河院跡で庭園の池跡が2つ見つかる
当時の高級貴族の宅地と同じ1町(120m四方)ほぼ全域が庭園であったといわれる
一つは、三日月形の池で、南北26m、東西15m、深さ約1mとされる
平安時代の池としては深い
南岸には、粘土が丁寧に張られ、半島状の出島が作られている
もう一つは、直線状で東西に長い池
古い池を造り替えた形跡があった
周りには、白砂が敷かれ、直径1mの庭石や、釣殿があったと思われる石敷きも発見された