一乗寺下り松(いちじょうじさがりまつ)は、左京区一乗寺、詩仙堂、八大神社の西にある史跡
ここにある松の樹の下で、江戸時代初期の剣客 宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘したといわれる
都から比叡山や近江国へ至る交通の要所で、旅人の目印として植え継がれてきた
<下り松>
平安時代からの古い街道で、北は白鳥越えで、東は今道越えで、比叡山を経て近江国へ通じる分岐になっている
旅人の街道の目印として、この松が植え継がれてきた
初代下り松
1604年(皇紀2264)慶長9年
松の下で、剣客 宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘したといわれる
1945年(皇紀2605)昭和20年頃
二代目の松が、修学院離宮から移植される
その後、三代目の松に植え替えられた
1981年(皇紀2641)昭和56年5月頃
松くい虫が流行し、その被害にあって枯死してしまう
1982年(皇紀2642)昭和57年1月11日
四代目となる下り松が植樹された
<石碑「宮本・吉岡決闘之地」>
1921年(皇紀2581)大正10年
広島県呉の剣士 堀正平(後に剣道藩士九段)の自書にて建てられた
江戸時代初期の剣客 宮本武蔵と吉岡一門と3度の戦いが行われたといわれる
吉岡清十郎と、蓮台野で剣術試合を行って勝つ
吉岡伝七郎(吉岡清十郎の弟)と、洛外で戦って殺害する
これにより吉岡一門の恨みを買う
1604年(皇紀2264)慶長9年
この下り松の地で、吉岡又七郎(吉岡清十郎の子)ら数十人の門人が、宮本武蔵を待ち構え決闘になる
宮本武蔵は、たちまち吉岡又七郎を斬って、驚く吉岡一門の者を退けて立ち去ったいわれる
<石碑「大楠公戦陣蹟」>
「宮本・吉岡決闘之地」の右側にある
後醍醐天皇が、足利尊氏から京都を奪回するときに、後醍醐天皇軍の楠木正成が陣所を置いた跡を示すもの
1945年(皇紀2605)昭和20年に建てられた
碑文
「建武三年正月足利尊氏兵八十万を率ゐて来寇す官軍之を邀へ廿七日を期して京に決戦せむとす
乃ち前宵楠木結城伯耆の諸将其勢三千餘騎叡山を西に降りて下松に陣し明くる遅しと進み撃ち一挙にして賊徒を西海に却け了んぬ
これ多くは楠公神策の然らしめし所太平記の著者も楠木は元来勇気無双の上智謀第一と讃歎せりしかれとも
我か国悠久三千年必すしも文武智勇の人に乏しかりきとせすしかも楠公に貴き所以は其智勇常に天皇に帰一し奉りしに在り
かゝる楠公精神こそ以て新に樹立すへき産業日本の指針たるへく又以て永く興隆すへき平和日本の標幟たるへし
即ち斯に陪碑して公の徳を謳はむとする所以なり」と記されている
1336年(皇紀1996)延元元年/建武3年正月
足利尊氏が、80万ともいわれる大軍を率いて京都に進攻し都を制圧する
後醍醐天皇は、一旦、比叡山山麓の坂本に逃れ、27日の早朝から都の奪回の総攻撃を仕掛ける
楠正成、結城宗広、名和長年の3千余の兵は、坂本を経由して、この一乗寺下り松に陣を張る
北畠顕家は3万余を率いて山科に、洞院実世の2万余が赤山禅院付近に、延暦寺衆徒1万余人が鹿ヶ谷に、
新田義貞・脇屋義助兄弟の2万余が北白川に陣取った
この奪回作戦の成功により、敗れた足利尊氏軍は丹波から神戸、摂津を経て九州へと落延びた