伊佐家住宅(いさけじゅうたく)は、木津川にかかる流れ橋の西詰め近くにある、江戸時代に幕府領の庄屋を務めた伊佐家の住居
入母屋造に大きな茅葺屋根、今は入手できない壁土「桃山」で作られた赤い壁が特徴
<母屋(重要文化財)>
1734年(皇紀2394)享保19年の再建
江戸時代中期の南山城地方における代表的な庄屋屋敷
入母屋造
茅葺屋根は、かつてあった巨椋池の茅で葺かれ、軒端の厚さが1.5m程ある
大きな屋根を支える柱や梁はどっしりと太く、庄屋屋敷らしい風格をだしている
特徴的な赤い壁は、今は入手できない伏見の壁土「桃山」が用いられている
1975年(皇紀2635)昭和50年に重要文化財の指定を受ける
1980年(皇紀2640)昭和55年
長蔵・内蔵・東蔵・乾蔵などの一連の建物が、重要文化財の追加指定される
屋敷の周囲には濠をめぐらせ、防禦と水利を兼ねた環濠住居となっている
内部は、この地域で一般的な田の字形の整形四間取(せいけいよつまどり)
書院風の座敷がある
<叉首組(さすぐみ)>
茅葺の屋根を支えるために、梁の上に2本の丸太を加工した叉首を三角形に組んだもの
通常は、前後の叉首を同じ長さ、同じ勾配として組まれる
伊佐家では、前後の叉首を異なる長さ、異なる勾配となるように組み、
勾配が急となる側の叉首と茅葺との間に短い木材が追加されて、反対側と勾配をそろえている
江戸時代には、建物の中心部分の梁の長さを3間(約6m)までとする「三間梁(さんけんばり)」に規制されており、
3間よりも長い梁に叉首を組んで大きな屋根としていた
伊佐家住宅から約3.5km南にある澤井家住宅でも、同じような特殊な叉首組がみられる
<上津屋村>
木津川にかかる流れ橋がある付近の両岸地域の農村
江戸時代から明治時代の中頃まで里・浜・東向の3つの集落があった
伊佐家は、真宗の善照寺、専琳寺、光瀬寺の3つの寺がある浜地域にて庄屋を代々務めていた
<澤井家住宅>
伊佐家住宅から約3.5km南にある
伊佐家住宅と同じような建築様式
再建時に作成された古文書や棟札、建物に残された墨書(ぼくしょ)から、
同じ大工集団「松井村前川吉兵衛」により建築されたとされる