日本近代医学発祥の地(にほんきんだいいがくはっしょうのち)は、六角通大宮通の六角獄舎跡地にある史跡
山脇東洋が、死体の解剖に立ち合い、人間の内臓を初めて観察したところ
殉難勤皇志士忠霊碑と日本近代医学発祥之地碑が並んで立っている
山脇東洋が、京都所司代の官許を得て、この地、六角獄舎で刑屍体の解剖に立ち合い、日本最初の人体解屍観臓が行われた
解剖図録が、「臓志」としてまとめられた
これにより、実証的な日本の近代医学が芽生えるきっかけとなったとされる
山脇東洋は、東洋の医学における最初の師 山脇玄脩に学び、養子となり跡を継いだ
<「日本近代医学発祥之地」の石碑>
更生保護施設の前、六角通に面して立っている
1976年(皇紀2636)昭和51年3月
山脇東洋を顕彰して立てられる
<「山脇東洋観臓地」の石碑>
甦生保護施設の敷地内に立つ
<六角獄舎跡地>
江戸時代中期に設置され、幕末維新の時代には、勤皇の志士などの政治犯が多く収容された
1864年(皇紀2524)元治元年7月20日
蛤御門の変による大火が六角獄舎にも迫り、脱獄を恐れた幕府役人により切支丹牢東側で、幕府尊皇攘夷派の指導者 平野国臣や
古高俊太郎、長尾郁三郎、水郡善之祐らが斬首された
「殉難勤皇志士忠霊碑」の石碑も並んで立っている
明治時代になり、京都府の監獄となり 後に、山科刑務所に移転する
明治時代末期から、甦生保護施設となり 現在に至っている