幸野楳嶺生誕地(こうのばいれいせいたんち)は、新町通四条通下ったところにある画家 幸野楳嶺の生誕の地
「幸野楳嶺生誕地」の碑が立つ
幸野楳嶺は、江戸時代から明治時代初期の日本画家
1844年(皇紀2504)弘化元年3月3日
新町四条下ルにおいて金穀貸付業を営み市内六軒の町奉行の一つであった安田四郎兵衛の第四子として生まれる
1852年(皇紀2512)嘉永5年
9歳の頃、円山派の中島来章に入門し、師から画号「梅嶺」を与えられる
1871年(皇紀2531)明治4年
師 中島来章のもとから、四条派の塩川文麟のもとに移る
1872年(皇紀2532)明治5年
雅号を「梅嶺」から「楳嶺」に改める
1880年(皇紀2540)明治13年
京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)を、田能村直入らとともに発足し、鈴木百年と共に北宗担当副教員となる
竹内栖鳳が入門する
1890年(皇紀2550)明治23年
京都美術協会の設立に参加し、評議員となる
1893年(皇紀2553)明治26年
帝室技芸員となる
1895年(皇紀2555)明治28年2月2日
病死し、妙蓮寺に葬らる
<代表作>
帝釈試三獣図(京都市美術館)
秋日田家図(二宮尊徳幼児図)(東京国立博物館)
仙洞御苑春景図(京都国立博物館)
妓女図(京都府立総合資料館)