千歳車塚古墳(ちとせくるまづかこふん)は、亀岡市東北部の千歳町、稲築山から伸びる台地の先端部に築造された古墳
築造当時の古墳時代後期としては、丹波地方で最大規模、近畿地方でも屈指の規模の古墳
丹波国桑田郡に住んでいたという仲哀天皇5世孫の倭彦王(やまとひこのおおきみ)のお墓とされる
古墳時代
後円部から出土品した円筒埴輪から、6世紀前半の築造と見直されている
丹波国桑田郡に住んでいたという仲哀天皇5世孫の倭彦王(やまとひこのおおきみ)のお墓とされる
「日本書紀」によると、
507年(皇紀1167)継体天皇元年頃
武烈天皇が後嗣なく崩御されたとき、
男大迹王(後の継体天皇)とともに皇位継承候補者に挙げられていたとされる
倭彦王は、実在性の薄い仲哀天皇の後裔であり、普通名詞に近い「やまとひこ」との名前からも伝承性の強い人物といわれる
築造当時としては、丹波地方で最大規模で、近畿地方でも屈指の規模の古墳で、
大和王権の血統を受け継ぐような、丹波・丹後全域を統括する勢力を持った人物と推測されている
1970年(皇紀2630)昭和45年3月
亀岡市指定史跡に指定される
1982年(皇紀2642)昭和57年12月18日付
国の史跡に指定される
2001年(皇紀2661)平成13年
第1次発掘調査
墳丘西側で、2重周濠、外堤上の壇状施設が確認される
2002年(皇紀2662)平成14年
第2次発掘調査
墳丘南側・北西側の周濠調査により、南東部での周濠の途切れが確認される
2005年(皇紀2665)平成17年
第3次発掘調査
墳丘北東側の周濠調査により、墳丘東側での旧流路による周濠消滅が確認される
築造当時の古墳時代後期としては、丹波地方で最大規模、近畿地方でも屈指の規模の古墳といわれる
<墳形>
前方後円形:片直角型前方後円墳
墳丘主軸線と前方部前端が直交せず、左右非対称のいびつな前方後円形になっている
周濠も、後円部の同心円ではなく、周濠の片側側線と前方部正面線が直交する左右非対称形の片直角型
片直角型は、古墳時代中期に多く見られた特徴になる
同時期の継体天皇の真陵とされる今城塚古墳(大阪府高槻市)では、前方部前端が突出する「剣菱型」が新しく採用されている
このことから、千歳車塚古墳は、新勢力ではなく、旧勢力の首長墓ともいわれる
<方向>
前方部が北西方に向いている
<墳丘>
3段築成
墳丘長:現在約82m、元は88m程あったとされる
<前方部・後円部>
前方部が発達しており、前方部の幅が、後円部の直径を上回るという特徴がある
前方部:3段築成、幅約49m(元は推定62m)、高さ約7m
後円部:3段築成、直径約46m(元は推定約54m)、高さ約7.5m
<埋葬施設>
主体部となる内部は未調査で不明
<墳丘表面>
墳丘表面には、葺石や埴輪がみられる
<墳丘周囲>
2重の周濠が巡らされている
内濠(盾形周濠)の痕跡は、現在も墳丘周囲の一段低い平地としてみられる
墳丘の裾周りは、後に削平されて高さ数mの崖状となっており、墳丘の第一段はほぼ失われたとされる
円筒埴輪の出土地点に基づいて、墳丘第一段を約3mほどと仮定して元の大きさが推定される
<祭祀場所>
外堤西側では、左くびれ部の正面、および、前方部の北西隅部分に張出しがあり、祭祀が行われていたとみられる
<亀岡市文化資料館>
亀岡市古世町中内坪
千歳車塚古墳の出土埴輪などが展示されている
<野焼き>
毎年、春先に野焼きが行われている
<千歳町>
千歳車塚古墳の周辺には、丹波国一の宮 出雲大神宮や、丹波国分寺跡・国分尼寺跡など
律令制下の丹波国の中心施設がある
発掘調査により、千歳車塚古墳周辺は、弥生時代にも墓域であった可能性があるとされる