河原院跡(かわらのいんあと)は、平安時代中期、嵯峨天皇皇子 左大臣 源融が隠棲した
邸宅「六条河原院」の跡地
木屋町通五条下ルには、「此附近源融河原院址」と記された石碑が立つ
平安時代中期
六条河原院は、嵯峨天皇皇子 左大臣 源融が、摂政 藤原基経の台頭により隠棲した邸宅
平安京の六条大路の北、東京極大路の西に位置し、8町の広大な敷地をもっていたといわれる
庭園内に、鴨川の水を引き入れて池をつくり、陸奥国の塩釜の浦の景観を再現させた景勝地だったといわれる
難波や尼崎から毎月30石の海水を運ばせて、塩焼をさせて、その風情を楽しんだといわれ、
在原業平など、多くの歌人・文人たちの遊興の場でもあったといわれる
源融の死後、息子の源昇へ、さらに宇多法皇に寄進され仙洞御所になり「東六条院」と称された
その後、源融の三男 僧の仁康聖人(にんこうしょうにん)に与えられ、寺院に改められるが、
仁康聖人が、祗陀林寺(ぎだりんじ)を創建するときに、河原院の本尊を移され、
また、数度の火災により荒廃していったといわれる
江戸時代
徳川家康が、豊臣秀吉の神格化を妨害するかのように、河原院の跡地に渉成園が作られた
<源氏物語>
河原院は、「源氏物語」21帖「少女」の巻において、光源氏が造営した六条河原院のモデルとなったといわれる
<今昔物語>
源融が亡くなると、奇怪な噂にまつわられ「物の怪屋敷」と称されるようになり
源融の息子 源昇により、邸宅が宇多上皇に献上されるが、源融の亡霊がたびたび現れるようになり、
宇多上皇の愛妃もこの邸宅でたびたび物の怪に襲われたといわれる
その後、邸宅は荒れ果てていったといわれる
<籬の森(まがきのもり)>
「昭和京都名所図絵」によると、
明治時代初期までは、この辺り一帯は「籬の森」と称される森だったといわれる
河原院内の庭園の中の島「籬ノ島」が、鴨川の氾濫によって埋没し、森として残ったものといわれる
石碑の横には、榎の老木が1本だけ、森だった名残として残っている
<発掘調査>
1994年(皇紀2654)平成6年
京都市埋蔵文化財研究所によって、河原院の庭園の池の跡と推定される一部が発掘されている
左京六条四坊十一町(現在の五条通富小路の北側)とされる
<千喜万悦天満宮>
<高市稲荷神社>
<極楽寺>
<金光寺>
<西念寺>
<浄運院>
<上徳寺>
<新善光寺>
<宗仙寺>
<荘厳寺>
<竹林院>
<等善寺>
<徳林院>
<福田寺>
<白毫寺>
<本覚寺>
<萬年寺>
<蓮光寺>