究理堂(きゅうりどう)は、江戸時代に小石元俊が開設した私塾・医学塾
現在は、婦人科系の医業が営まれている
<小石元俊(こいしげんしゅん)>
江戸時代後期の蘭学者、蘭方医
元俊は通称で、名は国瑞
幼名:太吉
字:有素
号:大愚、碧霞山人
息子:小石元瑞
親交:杉田玄白、篠崎三島、慈雲飲光、大槻玄沢、亀井南冥、小田享叔、紫野栗山
門弟:斉藤方策、南部伯民、橋本宗吉など
関西における蘭医学の主唱者で、東西の蘭学を結びつける人物
山脇東洋の孫弟子にあたり、杉田玄白の「蘭学事始」にも登場する
江戸時代中期
1743年(皇紀2403)寛保3年
山城国桂村に生まれる
父親は、若狭小浜藩家老 林野氏の出自で、流浪中に小石姓に改めたといわれ、小石元俊は2代目
1751年(皇紀2411)宝暦元年
医学を志し、山脇東洋門下で柳河藩医 淡輪元潜に師事し「元俊」と改める
淡輪元潜の紹介で、同じく東洋門下の永富独嘯庵からオランダ医学なども学ぶ
1769年(皇紀2429)明和6年
大坂で衛生館を開業
1774年(皇紀2434)安永3年
江戸戸で出版された「解体新書」に触発され、杉田玄白、大槻玄沢に会い、江戸に出る
1777年(皇紀2437)安永6年
永富塾での亀井冥南の影響で、皆川淇園の家塾に入門し、「元衍」を著する
陰陽五行説に基づく旧態医学を批判する
1783年(皇紀2443)天明3年
伏見で人体解剖を行う
1796年(皇紀2456)寛政8年
人体解剖を行い、「施薬院解男体臓図」を著す
1801年(皇紀2461)享和元年
京都で医学塾・究理堂を開き、上方での蘭学拡大に貢献した
1808年(皇紀2468)文化5年12月25日
66歳で死去
<小石元瑞>
小石元俊の息子で、小石家3代目
頼山陽、篠崎小竹、田能村竹田ら、医者・文化人と親交があった
<小石中蔵>
小石家4代目
幕末維新の時代に、種痘の普及に功績をあげたといわれる
江戸時代後期
1801年(皇紀2461)享和元年
小石元俊が、現在の地に、医学塾・究理堂を開き、上方での蘭学拡大に貢献した
息子の三代目 小石元瑞の時代には、門弟は、全国から集まり、門人帳には約2千人が記録されている
代々の子孫が婦人科系の医業を営み
江戸時代(主に、小石元瑞の時代)のカルテ約1万人分が保存されている