男爵前田正名君記念碑(だんしゃくまえだまさなきねんひ)は、東山区の知恩院の築地塀の外、神宮道に面して立っている碑
前田正名は、薩摩藩藩士で、明治政府の殖産興業政策を立案し実践した中心人物
近くの知恩院境内には、前田正名碑も建てられている
前田正名(まえだまさな)
明治政府の殖産興業政策の政策立案と実践した中心人物
生年:1850年(皇紀2510)嘉永3年3月12日
没年:1921年(皇紀2581)大正10年8月11日
享年:72
爵位:男爵
知恩院の築地塀の外、神宮道に面して立っている石碑
知恩院の境内に建てられている
建立年 1925年(皇紀2585)大正14年
建立者 前田男爵建碑会
高さ210cm × 幅275cm × 奥行90cm
<西側>
富岡鉄斎により、行脚中の前田正名の姿が描かれている
1910年(皇紀2570)明治43年6月に、前田正名が欧州視察時に贈った七言古詩が刻まれている
富国強兵豈無
術厚生利用在
民安丹心惟有
皇天鑒至老
不辞行路難
明治四十三年六月
前田正名君再赴欧州日
賦此送之旧作
大正甲子四月 八十有九叟
<東側>
前田君碑陰記
君諱正名薩摩前田氏故麑島藩士諱善安二子幼愛卉木好樹芸九歳就
外傅読洋書明治中興初*派出洋留学法京学成補外務書記生服勤使
署居四歳会法国新敗議設万国賽会以資興復君投袂起曰出陳邦産開
広銷路好機不可失即請帰朝建言当路明治十年有命以事務官長辨理
賽務先期而往#事而還使西人知我民物之美君之力也是時我邦開埠
伊始出口之貨概由外人販運以致商柄外移漏巵日鉅君深有慨焉既自
法返画策挽回名云直輸貿易意見歴訪枢要開陳利病遂周遊海内倡収
柄塞漏之議時人未達謗言紛集君不少撓執持弥堅実明治十四年也是
年為大蔵大書記官旋改農商務以理事官出差由美之欧閲年而帰著興
業意見累篇五十巻開物裕民之計振商恵工之方備焉二十二年由工務
局長転農務局長次年陞農商務次官遷元老院議官亡幾移疾致仕初君
策直輸貿易挙専設銀号勧集公司団結産業三事為之先務既而横浜正
金各埠公司相踵創立独産業団体未見端倪君意甚憾遂慨然解組縛自
便馳駆自是東西南北席不暇暖寒郷僻邑無遠不至至則招呼父老告以
糾団合力之急又屡往来海外以大局機運警醒民商開導万方貫以一誠
於是茶業会先成五二会継之農事蠶絲燐寸木蝋造酒畜産炭礦諸会又
継之 有商工貿易等会相為表裏乃分全国為八区歳事作区大会全国
大会籌商各業応行事宜作各種賽会奨進技能君則周巡各区輪荏各会
督率提撕惟恐不及民商倚重称為白衣農相大正十年君有事鎮西抵博
多獲疾八月十一日病革遂不起距其生弘化三年三月享年七十有六先
是君以特簡列貴族院議員賜藍綬褒章易簀日叙正三位勲二等授男爵
宣 旨至而君不及知矣君以振興産業為己任而不居其功其図利用厚
生一以正徳為本嘗公所見一篇勧忠孝戒躁浮毎集衆作会必奉 御容
展拝而後従事平生無玩好口腹之欲声色之娯一旦遇義慷慨敢為不辞
険難労瘁其留学巴黎値徳兵攻囲乞入卒伍備嘗艱苦大正八年列強議
和君単身入法奔走旧識将相間斡旋甚力可見其与天下相 之情至
老不衰也君既見背海内故旧同人思慕不已胥謀樹碑平安華頂山勒遺
愛不朽平安者産業枢紐華頂乃団体告成之地因営山門之北拠爽 臨
間曠崇其基固其趺面刻富岡鉄斎先生所贈詩画先生与君旧交知君心
事尤熟者又以甚三郎早受君知属以碑陰之文推不得辞於是拠所見聞
詮次為記其世次嗣続繋於家譜仕宦閲歴録於有司異聞軼事伝於口碑
者皆不論著其関民生国計之要者庶幾不負君之平生歟
大正十三年歳次甲子十一月
前田男爵建碑会会長従五位勲四等内貴甚三郎撰
<北側>
前田男爵建碑会
会長 内貴甚三郎
幹事長 丹羽圭介
東京主任幹事 福島宜三
大正十四年四月建設
大阪主任幹事 愛甲兼達
庶務主任幹事 平野吉兵衛
募集主任幹事 高田新助
会計主任幹事 福田重助
<南側>
前田男爵建碑会
顧問 子爵 高橋是清
顧問 男爵 九鬼隆一
顧問 男爵 武井守正
顧問 男爵 平山成信
顧問 若林賚蔵
顧問 馬淵鋭太郎
顧問 池松時和