旧前川邸(きゅうまえかわてい)

所在地:京都市中京区壬生賀陽御所町   名所地図情報名所

総坪数:443坪
平屋建て
建坪:273坪
部屋:12間、146畳

 旧前川邸(きゅうまえかわてい)は、壬生にある新選組の結成時の壬生屯所跡

 西は坊城通、北は綾小路通に面している

 約2年間、新選組の隊士たちは壬生八木邸と前川邸、南部邸(現存していない)、新徳禅寺に分かれて宿泊した

 その後、前川邸は所有者が変わり、現在は株式会社田野製袋所となっている

【旧前川邸の歴史・経緯】

【前川邸】

 西は坊城通、北は綾小路通に面している

 敷地総坪数:443坪
 家は、平屋建、273坪、部屋は12間あり、146畳の広さがあった

 周囲は、長屋門の板塀、土塀で囲まれている


 <長屋門>
 北向き
 4頭の馬が横並びで駆け込めたといわれる

 長屋門右手の北西の出窓は、新撰組により造られた
 東には、新たな監視用の出窓が造られた

 当初は、新選組の道場として使われており、後に隊士の部屋に改造される

 副長 野口健司は、長屋門奥の右手の部屋で切腹されられたといわれる

 北西角には、隊士を集合させるために打ち鳴らした拍子木があった


 <玄関土間>
 石畳から母屋玄関、左手の勝手口に広い土間が続いている
 天井は高く、雨の日には、そこで剣術の稽古が行われたといわれる
 勝手口は、4頭の馬が横並びで駆け込めたといわれる


 <母屋>
 母屋の中央付近の納戸部屋の納戸下から、西の坊城通に通じる抜け道が新たに造られた

 南西に山南敬助が切腹した部屋がある
 その部屋のすぐ北に、前日に恋人 明里との別れを惜しんだという出窓があったといわれる


 敷地の南端に2つの土蔵が現存している

 <東の蔵>
 1839年(皇紀2499)天保10年の建立
 貴重品保管庫として造られ、四重扉で厳重に造られ、地下に金庫が置かれた

 外扉木枠には「天保十己亥年正月皆成就」「前川五郎左衛門義陳建之 東蔵」と墨書されている

 瓦には細かな細工が用いられており、出入り口正面上と、丸瓦の先端にあたる軒巴には、
両替商の前川家が御所に出入りするための許可証として使用していた門鑑の三重丸が刻まれている

 箱階段で二階に上がると、階段との間に引き戸が付けられている
 二階の天井板はなく、梁から一階に通じる荷物を昇降するための荒縄が吊されている
 この荒縄に、攘夷派の小道具商 古高俊太郎が、逆さに吊るされ、土方歳三らの激しい拷問を受けた

 窓を開けると、八木邸が網目越しに見える


 <西の蔵>
 1837年(皇紀2497)天保8年の建立
 味噌蔵として建造された


 <米蔵>
 かつて敷地の東に立っていた

 <裏庭>
 台所の横を抜けた裏に広い庭があった
 大砲撃ちの稽古をしたといわれる

 <馬屋>
 裏庭にあった

 <裏口>
 庭の南西に前川邸の西に隣接する八木邸への通用口になっていた裏口があった

【旧前川邸の文化財】

 <近藤勇拝両刀 陸奥大掾三善長道>
 初代長道の最上大業物
 「会津虎徹」とも称される
 池田屋騒動の褒美として、会津藩より近藤勇に贈られたとされる
 近藤勇が流山で出頭したときに所持していたともいわれる

 <伝近藤勇佩刀 長曽祢虎徹興正>
 「会津虎徹」の二代目 興正の銘が彫られている
 「近藤勇の虎徹」として金子堅太郎が所有していた

【旧前川邸へのアクセス】

 市バス 壬生寺道 徒歩20分


【京都検定 第23回3級】

【京都検定 第21回2級】

【京都検定 第11回1級】

[インデックス]


京都通メンバページ


フェイスブックでシェア LINEで送る

[目次]


[関連項目]


[協賛リンク]



[凡例]

赤字
 京都検定の出題事項
 (過去問は下段に掲載)

ピンク
 京都検定に出題された
項目へのリンク

青色紫色
 関連項目へのリンク