坂本龍馬妻お龍寓居跡(さかもとりょうまつまおりょうぐうきょあと)

所在地:京都市中京区木屋町通六角下ル東側材木町   地図情報

 坂本龍馬妻お龍寓居跡(さかもとりょうまつまおりょうぐうきょあと)は、木屋町通高瀬川山崎橋東詰を
下ったところにある石碑

 坂本龍馬の妻 お龍(おりょう)が独身時代に住んでいたとされる寓居跡

【坂本龍馬妻お龍寓居跡】

 2009年(皇紀2669)平成21年3月
 NPO法人 京都龍馬会により石碑が立てられる

 高さ112cm x 幅18cm x 奥行18cm

 <碑文 西側>
 坂本龍馬妻
 此付近 お龍 独身時代 寓居跡

 <碑文 北側>
 京都府知事
 此付近 中井弘 幕末期 寓居跡

 <碑文 南側>
 二〇〇九年三月
 特定非営利活動法人 京都龍馬会 建之


 <壁面パネル>
 坂本龍馬の妻となるお龍(鞆)は、青蓮院宮に仕える医師楢崎将作・貞の長女でした。
 京都柳馬場三条下ル東側に住んでいましたが、文久2年(1862)6月20日、不幸がおきます。
 父の死去です。このため母・妹・弟をふくむ6人の遺族は困窮し、
「京都の木屋町」もしくは「四条、うら通りの借家」に移住します。
 こののち一家は離散し、お龍(鞆)は単身七条新地の扇岩なる店に入ります。
母と妹君江は、洛東大仏南門前(現東山区本瓦町付近)の河原屋五兵衛(五郎兵衛)隠居所の
土佐亡命志士の居所に住み込みで働きました。
 その縁で龍馬とお龍(鞆)は出会うことになります。
 木屋町の住居は、その直前まで住んでいた地として無視できません。
 というのも、龍馬の書翰に記載されたお龍(鞆)の個性を知るエピソードに、
妹光枝が悪い輩にだまされて大坂の遊郭に連れて行かれたが、彼女が単身乗り込み、
ついに連れ戻すというものがあります。それが木屋町時代のことです。
 正確な位置は不明ですが、龍馬が「まことにおもしろき女」と愛したお龍(鞆)のゆかりの地として、
ここ木屋町通に建碑するものです。
 なお龍馬やその終焉地の主人近江屋新助とも交流のあった、滋賀県知事や京都府知事を歴任する中井弘も、
中井弘蔵や田中幸助と名乗った幕末当時、木屋町の近江屋喜一郎の2階に寄宿していました。
 あわせて顕彰します。
     歴史地理研究者 中村武生

【その他】

 <お龍(おりょう)>
 青蓮院宮(しょうれんいんのみや)に仕える医師 楢崎将作(ならざきしょうさく)貞(てい)の長女
 柳馬場三条下ル東側に住んでいた

 1862年(皇紀2522)文久2年6月20日
 父親が死去
 母・妹・弟の6人は、木屋町あるいは四条裏通の借家に移住する

 後に、一家は離散し、お龍は、単身で七条新地の扇岩(おうぎいわ)の店に入り、
母と妹君江(きみえ)は、洛東大仏南門前(現在の東山区本瓦町付近)の河原屋五兵衛(かわらやごへい)隠居所の
土佐亡命志士の居所に住み込みで働くことになる
 この縁で、坂本龍馬とお龍が出会うことになる

 <中井弘>
 第5代 京都府知事
 石標の南面に「此付近 京都府知事 中井弘 幕末期寓居跡」と記されている
 「中井弘蔵」や「田中幸助」と名乗っていた幕末に、木屋町近江屋喜一郎の2階に寄宿していた


【アクセス】

 市バス 河原町三条 徒歩数分


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