修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)は、比叡山山麓にある後水尾上皇が江戸時代初期に造営した広大な山荘
上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋(なかのおちゃや)、下御茶屋(しものおちゃや)の3か所の庭園からなる
各御茶屋の間には田畑が広がり、細い松並木道が各御茶屋を結んでいる
茶室のもつ自由闊達な建築手法を取り入れた江戸時代初期の建築様式「数寄屋造」の代表事例
同じく桂離宮と並んで、江戸時代初期の代表的山荘とされる
池泉観賞式庭園で、門と塀以外の建物としては、書院の寿月観を残すのみ
<御幸門>
御幸門から中に入る
<寿月観>
天皇や女院が行幸したときの御座所
御興寄があり、一ノ間、二ノ間、三ノ間を鍵の手に配し、柿葺(こけらぶき)の屋根の簡素な建物
「寿月観」の扁額は、後水尾上皇の宸筆
水墨の襖絵は、後水尾上皇時代のものではなく、江戸後期の絵師 岸駒および岡本豊彦の作品
寿月観前庭には、飛び石、袖石灯篭、朝鮮灯籠、櫓形灯籠がある
1824年(皇紀2484)文政7年の再建
当初から修学院離宮内に造られたものではなく、
かつて同地にあった林丘寺(りんきゅうじ)内の楽只軒(らくしけん)と客殿などの建物が、
1886年(皇紀2546)明治19年の林丘寺の移転の際に、同地に残されたため修学院離宮に編入されたもの
林丘寺は、門跡尼寺として今も存続している
<表門>
<林丘寺旧表総門>
<楽只軒>
1668年(皇紀2328)寛文8年
後水尾上皇第8皇女 朱宮光子内親王(あけのみやてるこないしんのう)のために造営された朱宮御所(あけのみやごしょ)
朱宮御所は、上皇の死後、林丘寺に改められる
<客殿>
書院造
1677年(皇紀2337)延宝5年に造営された東福門院(後水尾天皇女御、徳川2代将軍秀忠娘)の女院御所の奥対面所を
1682年(皇紀2342)天和2年に移築したもの
客殿一ノ間の違い棚は、「霞棚」と称され、
「天下の三大名棚(醍醐寺塔頭 三宝院の「醍醐棚」、桂離宮の「桂棚」)」の一つ
大堰堤(おおいつつみ)が建築され、
比叡山から流れ出る音羽川の渓流を引いた巨大な人工池の浴龍池と、大刈込を中心とした壮大な庭園
<御成門>
<隣雲亭(りんうんてい)>
御幸門から石段を上った離宮内の最高所に建ち、視界展望が開け、眼下に浴龍池、
遠方に借景の山々と京都市街地を望む壮大な風景が広がる絶景の場所
1824年(皇紀2484)文政7年の再建
展望を目的とした装飾のほとんどない簡素な建物
内部は、6畳の一ノ間、3畳の二ノ間と6畳間の3室からなる
一ノ間北東の板張りの縁は「洗詩台」と称される
<一二三石(ひふみいし)>
隣雲亭の軒下の三和土(たたき)には、赤と黒の小石が埋め込まれている
<浴龍池(よくりゅうち)>
中島、万松塢(ばんしょうう)、三保ヶ島という3つの島があり
楓橋、土橋、中国風の千歳橋の3つの橋が架かる
<雄滝(おだき)>
隣雲亭の石灯籠の脇を通り石段を下ったところにある
落差約6m
<窮遂亭(きゅうすいてい)>
浴龍池の中島に建つ
修学院離宮において創建当時のまま残る唯一の建築
三間四方、柿葺(こけらぶき)、宝形造(ほうぎょうづくり)で、内部は18畳1室
<山寺灯籠>
<滝見灯籠>
<修学院離宮十境>
後水尾上皇が、鹿苑寺(金閣寺)の鳳林承章に命じて10ヶ所を選定させる
そのうち、寿月観、隣雲亭、窮邃亭、浴龍池、洗詩台(せんしだい)、万松塢(ばんしょうう)、菩提樹の七境が現存する
<近代京都文学 京都ゆかりの著書>
「日本美の再発見」 ブルーノ・タウト
<雲母坂(きららざか)>
修学院離宮横を通って、延暦寺の根本中堂に通じる最短コース