賀茂斎院跡(かもさいいんのあと)は、紫野の櫟谷七野神社の境内にある斎院の跡地
賀茂社に奉仕する未婚の皇女や王女を「斎王」と称され、斎王が身を清めて常住する場所を「斎院」と称された
「賀茂斎院跡」の石碑が立っている
平安時代から鎌倉時代にかけて
賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)に奉仕する斎王が身を清めて住まわれた御所(斎院)のあった場所
賀茂斎王制ができたことにより、伊勢の斎王の御所を「斎宮」、賀茂のを「斎院」として区別されるようになった
清浄な地であった紫野の櫟谷七野神社あたりに置かれ、
このあたりが紫野と称される地であったため「紫野斎院」とも称された
敷地は、大宮末路(大宮通)と安居院大路(廬山寺通)を東南の角として、54丈(約150m)四方の広さがあった
斎院には「内院」と「外院」があった
内院には、賀茂社の祭神を祀る「神殿」と斎王の住居の「寝殿」などがあった
外院には、長官以下の事務所「斎院司(さいいんのつかさ)」や客殿、蔵人所、警固の武士の詰める武者所、大炊殿などがあった
500人の官人と女官が仕え、男子も客殿までは入れた
<賀茂斎院跡>
櫟谷七野神社は、内院の北西の端にあたる
現在の境内には、外院の大炊殿、膳部殿があったといわれる
賀茂斎院の廃絶の跡の跡地は、廬山寺に施入された
廬山寺は、その後、応仁の乱で何度か焼失し、
豊臣秀吉の都市改造政策によって、京都御苑の東の寺町通の現在の地に移転する
<賀茂斎院跡の石碑>
櫟谷七野神社境内に、賀茂(紫野)斎院跡顕彰会により「賀茂斎院跡」の石碑が建立されている
建立年 2001年(皇紀2661)平成13年
建立者 賀茂(紫野)斎院跡顕彰会
碑文
南側
賀茂斎院跡 柏樹謹書(印)
北側
平成十三年十一月吉日
賀茂(紫野)斎院跡顕彰会建立 京都市杭迫柏樹謹書 和歌山県 近藤清一寄進
下段のプレート
この地は平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂社に奉仕する斎内親王、
即ち斎王が身を清めて住まわれた御所(斎院)のあった場所であり、
このあたりが紫野と呼ばれていたため、「紫野斎院」とも称された。
この斎院の敷地は、大宮通と廬山寺通を東南の角としており、約150メートル四方を占めていた。
斎王は嵯峨天皇皇女・有智子(うちこ)内親王を初代とし、累代未婚の皇女が卜定され、約400年続き
後鳥羽天皇の皇女三十五代礼子(いやこ)内親王をもって廃絶した。
斎王の中には選子(のぶこ)内親王や式子(のりこ)内親王のように卓越した歌人もあり、
斎院でしばしば歌合せが催された。
また斎院にはほぼ500人の官女や女官が仕えており、女官にも秀れた歌人が少なくなかった。
私達は、この文化遺産 斎院跡を顕彰し、後世に伝えるものである。
平成十三年十一月吉日 賀茂(紫野)斎院跡顕彰会
<斎王代参拝>
4月下旬
葵祭に先立って、斎王代が、上賀茂神社・下鴨神社の参拝後、櫟谷七野神社に参拝する
賀茂斎院跡の碑の前で御払いをした後、神前に献茶し、玉ぐしを供える
<歌合せ会>
斎院は歌壇でもあり、度々の歌合せが催された
優秀な歌人としては、有智子内親王、選子内親王、禖子内親王、式子内親王などがいる
<有栖川>
船岡山の南から大宮通を南流し、堀川に合流していた
境内を流れ、斎王の禊祓いが行われていたといわれる
<源氏物語>
1帖「桐壺」の巻では、主人公の光源氏が、斎院に奉仕中の朝顔に恋文を贈ったことが記されている