坂上田村麻呂のお墓(さかのうえのたむらまろのおはか)は、山科の東栗栖野の坂上田村麻呂公園にある西野山古墓
坂上田村麻呂は、奈良時代から平安時代初期の武将で「将軍塚」とも称される
坂上田村麻呂は、奈良時代から平安時代前期の武将で、征夷大将軍にもなり「将軍塚」とも称される
嵯峨天皇により山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村に3町の土地を賜り墓地として葬られる
平安遷都1100年記念事業により、墓地が整備され、円墳を方形の墳丘に修復して、墳墓が築造されている
<贈従弐位阪上将軍之墓>
平安遷都1100年記念事業により、墓地が整備されたときに坂上田村麻呂を顕彰するために建立される
篆額は、山階宮晃親王、撰文は 京都府副知事 渡辺千秋による
建立年:1895年(皇紀2555)明治28年5月
建立者:宇治郡民有志
寸 法:高さ195cm × 幅140cm
碑 文:南側
贈従弐位阪上将軍之墓
自古創業及中興之君不独天資叡明能統御内外必有一二名臣近賛廟謨遠当辺防者焉可美真手道臣之於
神武帝鎌足比羅夫之於 天智帝蓋是也
桓武帝之遷都于平安也和気公以三朝老臣翼賛鴻業阪上将軍継先世武勲鎮圧蝦夷使
朝廷無東顧之憂是以延暦雄図至今歴歴接睫而和気公先薨将軍
負禦侮之任築膽沢志波二城以大闢地于東陲其功最顕矣及薨
嵯峨帝宸悼不視事一日贈従二位賜賻無数且以山城国宇治郡栗栖
村水陸田山林三町為墓地使其屍立棺中向平安城而葬之後大将毎
出征先詣而祷焉其為国家所重如此歳月屡遷僅存孤墳維歳乙未四月
京都市修遷都一千百年祭典於是宇治郡民追懐将軍之勲業広與
同志謀修墳域及神道以便展拝事聞 宮内省賜金若干郡民感奮欲
并勒石伝之後世来請予文予深嘉其挙不辞而紀其概略銘曰
出征東夷 夷酋就戮 入衛近畿 姦慝懾服
勲業千年 赫赫史伝 爰表墳塋 維石巍然
大勲位晃親王篆額
京都府知事正四位勲三等渡邊千秋撰
明治二十八年五月 京都府属 正八位巖本範治謹書
<道標「坂上田村麻呂墓」>
平安遷都1100年記念事業により、墓地が整備されたときに建立される
建立年:1895年(皇紀2555)明治28年4月1日
寸 法:高210×幅24×奥行23cm
碑 文:
(西)坂上田村麻呂之墓
(東)明治二十八年四月一日建
坂上田村麻呂のお墓は、坂上田村麻呂公園、西野山古墳、青蓮院将軍塚の3カ所が候補といわれている
<西野山古墳>
山科区西野山岩ヶ谷町
金銀平脱双鳳文鏡・金装大刀・革帯飾石などの副葬品「山科西野山古墳出土品(国宝)」が出土している
文献などから、坂上田村麻呂のお墓ともいわれる
<青蓮院将軍塚>
桓武天皇が、平安遷都のときに王城鎮護のため、高さ八尺(約2.4m)の将軍像(征夷大将軍 坂上田村麻呂といわれる)に
鉄の甲冑を着せ、弓矢を持たせて、太刀を佩かせて、都の方に向けて埋めたとされる
<将軍塚鳴動>
嵯峨天皇により平安京の守護のため、征夷大将軍だった坂上田村麻呂の遺体に甲冑・剣鉾・弓箭がつけられ、
平安京に向かって立った姿で埋葬されたといわれる
国家の大事があるたびに塚が鳴動し、その前兆を示したといわれる