佐久間象山・大村益次郎遭難の地には、廣誠院の庭園の東南の隅(木屋町通から高瀬川の対岸)に、
二人がこの地で襲撃されたことを示す石碑が立てられている
二人が暗殺された年日は、全く異なる
石碑が立つ木屋町通(きやまちどおり)は、高瀬川沿いの通り
幕末維新のときには、土佐藩や長州藩などの諸藩の京都藩邸、尊攘派志士の寓居などが立ち並らび、
藩士や浪士の通行も多く、天誅とする襲撃事件も多かった
木屋町通の三条小橋のたもとには「北へ約一町」の道標が立てられている
廣誠院の庭園東南の隅に建てられている
木屋町通から高瀬川の対岸に見て右側が佐久間象山、左隣りが大村益次郎の石碑
<佐久間象山遭難碑>
1915年(皇紀2575)大正4年10月の建立
デザイン・設計は、武田五一
<大村益次郎遭難碑>
1934年(皇紀2594)昭和9年の建立
佐久間象山は、信州松代藩の下級武士、兵学者、開国論の思想家
1811年(皇紀2471)文化8年2月28日
信州松代藩に生まれる
1839年(皇紀2499)天保10年
大塩平八郎の乱から「学政意見書」を信州松代藩に提出して陽明学の弊害を述べ、
儒学・朱子学の再興を主張して、神田に私塾「象山書院」を開き、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬などを輩出する
1842年(皇紀2502)天保13年
藩主 真田幸貫が老中兼任で海防掛に命ぜられ、佐久間象山は、真田幸貫に「海防八策」を建言し高い評価を受ける
西洋科学の導入で、大砲の鋳造、ガラスの製造などに成功し、日本の殖産興国に尽力する
1864年(皇紀2524)元治元年
一橋慶喜に招かれて上洛
開国論を主張して公武合体論を唱える
同年7月11日
三条木屋町通で、開明的言動のため攘夷派志士の前田伊右衛門、河上彦斎らによって暗殺さる
木屋町通御池下ルに佐久間象山寓居跡の石碑があり、
大法院にお墓がある
大村益次郎(おおむら ますじろう)は、長州藩出身、兵学者、廃刀論者
贈従三位、後に従二位
1824年(皇紀2484)文政7年5月3日
長州藩で生まれる
西洋学や、梅田幽斎に医学を学び、緒方洪庵の塾で兵学を学ぶ
江戸に出て幕府の講武所教授などに就く
長州藩の軍事指導者として軍制改革などで活躍
農民や町人の兵式訓練の必要を説き、第2次長州征伐・戊辰戦争において指揮を行った
1869年(皇紀2529)明治2年7月8日
初代の兵部省兵部大輔(後の陸軍次官)に任命され、近代兵制の樹立に尽力し、事実上の日本陸軍の創始者といわれる
同年9月4日
廃刀論で士族の反感を買い、三条木屋町通で、反対派士族に襲われ重傷を負う
同年11月5日
容態が悪化し、敗血症で死去する
享年46