佐久間象山・大村益次郎遭難の地(さくましょうざん・おおむらますじろうそうなんのち)


所在地:京都市中京区三条木屋町一之舟入町   地図情報

日時:1864年(皇紀2524)元治元年7月11日の夕刻(佐久間象山
    1869年(皇紀2529)明治2年9月4日(大村益次郎)

 佐久間象山・大村益次郎遭難の地には、廣誠院の庭園の東南の隅(木屋町通から高瀬川の対岸)に、
二人がこの地で襲撃されたことを示す石碑が立てられている

 二人が暗殺された年日は、全く異なる

 石碑が立つ木屋町通(きやまちどおり)は、高瀬川沿いの通り
 幕末維新のときには、土佐藩や長州藩などの諸藩の京都藩邸、尊攘派志士の寓居などが立ち並らび、
藩士や浪士の通行も多く、天誅とする襲撃事件も多かった

 木屋町通三条小橋のたもとには「北へ約一町」の道標が立てられている

【遭難碑】

 廣誠院の庭園東南の隅に建てられている

 木屋町通から高瀬川の対岸に見て右側が佐久間象山、左隣りが大村益次郎の石碑

 <佐久間象山遭難碑>
 1915年(皇紀2575)大正4年10月の建立
 デザイン・設計は、武田五一

 <大村益次郎遭難碑>
 1934年(皇紀2594)昭和9年の建立


佐久間象山

 佐久間象山は、信州松代藩の下級武士、兵学者、開国論の思想家

 1811年(皇紀2471)文化8年2月28日
 信州松代藩に生まれる

 1839年(皇紀2499)天保10年
 大塩平八郎の乱から「学政意見書」を信州松代藩に提出して陽明学の弊害を述べ、
儒学・朱子学の再興を主張して、神田に私塾「象山書院」を開き、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬などを輩出する

 1842年(皇紀2502)天保13年
 藩主 真田幸貫が老中兼任で海防掛に命ぜられ、佐久間象山は、真田幸貫に「海防八策」を建言し高い評価を受ける

 西洋科学の導入で、大砲の鋳造、ガラスの製造などに成功し、日本の殖産興国に尽力する

 1864年(皇紀2524)元治元年
 一橋慶喜に招かれて上洛
 開国論を主張して公武合体論を唱える

 同年7月11日
 三条木屋町通で、開明的言動のため攘夷派志士の前田伊右衛門、河上彦斎らによって暗殺さる

 木屋町通御池下ルに佐久間象山寓居跡の石碑があり、
 大法院にお墓がある

【大村益次郎】

 大村益次郎(おおむら ますじろう)は、長州藩出身、兵学者、廃刀論者
 贈従三位、後に従二位

 1824年(皇紀2484)文政7年5月3日
 長州藩で生まれる

 西洋学や、梅田幽斎に医学を学び、緒方洪庵の塾で兵学を学ぶ
 江戸に出て幕府の講武所教授などに就く
 長州藩の軍事指導者として軍制改革などで活躍
 農民や町人の兵式訓練の必要を説き、第2次長州征伐・戊辰戦争において指揮を行った

 1869年(皇紀2529)明治2年7月8日
 初代の兵部省兵部大輔(後の陸軍次官)に任命され、近代兵制の樹立に尽力し、事実上の日本陸軍の創始者といわれる

 同年9月4日
 廃刀論で士族の反感を買い、三条木屋町通で、反対派士族に襲われ重傷を負う

 同年11月5日
 容態が悪化し、敗血症で死去する
 享年46

【アクセス】

 地下鉄 東西線 御池駅 徒歩約7分


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