佐藤継信・忠信塚(さとうつぎのぶ・ただのぶのつか)は、東山五条の南東、渋谷街道沿いにある石塚
平安時代末期の武士 佐藤継信・忠信兄弟のお墓と伝える2基の十三重石塔があったところ
渋谷街道には道標が建っており、狭い路地の奥の10mほど入った民家の脇にある
<道標「佐藤継信忠信之塚」>
渋谷街道沿いの路地入口に建つ
背面には、「昭和弐年参月 佐藤政治郎 建之」と彫られている
<馬町十三重石塔(うままちじゅうさんじゅうせきとう)>
京都国立博物館の中庭に2塔の「馬町十三重石塔」が復元されて建っている
南塔には、鎌倉時代後期1295年(皇紀1955)永仁3年2月の銘と、願主 法西(ほうせい)の銘がある
願文はない
塔内には、多数の金銅仏などが納められていた
<佐藤嗣信・忠信墓>
渋谷街道沿いの道標から北へ10mほど路地を入ると左手にある
<佐藤政養招魂碑>
佐藤嗣信・忠信墓の向かい、石の瑞垣をめぐらした壇の上の西側にある
<佐藤文褒翁碑>
佐藤政養招魂碑の壇の上の東側にある
<「花洛名勝図会」>
江戸時代の観光ガイドにも十三重石塔が掲載されており、観光名所にもなっていた
「馬町の北側民家のうしろにあり」と記されている
江戸時代から周囲は住宅地だったとされる
<「都名所図会」>
1780年(皇紀2440)安永9年の刊行
周囲を石垣で固めた高さ2mほどの塚の上に2基の十三重石塔が並んでいる様子が描かれている
「継信忠信塔 佐藤氏の兄弟は忠肝義膽の人にして漢乃紀信宋の天祥にもおとらざるの英臣也
美名後世にかがやきて武士たらん人ハ慕ひ貴むへき也
此石塔婆葉昔ハ十三重より星霜かさなりて次第に崩れ落 今ハ土臺の廻りの圍あり」と記されている
<「新板平安城東西南北町并洛外之図」>
1654年(皇紀2314)承応3年の刊行
「たゝのふつきのふ石たう」と記されている
<謡曲「忠信」・歌舞伎「義経千本桜」>
義経四天王とされる佐藤継信・忠信兄弟の源義経に対する忠節が表現されている
兄 佐藤継信は、屋島の戦いで、源義経の楯となって戦死する
弟 佐藤忠信は吉野山中に逃げこんだ源義経一行が吉野山の衆徒に襲われたとき、自害しようとする源義経の身代わりとなって
奥州から連れてきた手勢数人とともに数百人の僧兵相手に奮戦したとされる