七条仏所跡(しちじょうぶっしょあと)は、平安時代中期に現在の七条通高倉付近にあった仏師の工房跡
仏師(仏像を造像する彫刻家)の一族・子弟・子孫が集まり、居住して造仏にあたった
仏師の始祖と称される定朝の子とされる覚助を祖とする
鎌倉時代には、七条仏所から運慶・湛慶・快慶など慶派が活躍した
平安時代中期から鎌倉時代にかけて東大寺、興福寺などの復興と造仏に活躍
円派や院派の仏師を圧倒する一大勢力となった
復古的な作風を基に、新しく剛健で、写実に徹した彫技が特徴
仏師の始祖と称される定朝の子とされる覚助を祖とする
名前に「慶」が付く慶派が一大勢力となり活躍する
<七条仏所跡>
七条高倉交差点の南東の民家の前に駒札が立てられている
<仏所>
定朝の子 覚助:七条仏所を開く
定朝の弟子 長勢:三条仏所を開き円派となる
定朝の孫 頼助:七条仏所より分かれて奈良に移り、奈良仏所を開く
覚助から引き継いだ院助:七条仏所より分かれて七条大宮仏所を開き院派となる
康誉:鎌倉時代後半に七条西仏所に分かれる
康祐:室町時代、七条東仏所に分かれる
<七条道場金光寺>
現在の七条通東洞院東入南側 材木町
運慶の三男 康弁(七条仏所の仏師)が、定朝の邸宅を他阿上人に寄進し、七条道場金光寺の由来となる
時宗総本山
1906年(皇紀2566)明治39年
長楽寺に合併され、本尊や慶派仏師による上人像などは長楽寺へ遷された